遠藤文江氏 インタビュー|オーケストラ・アンサンブル金沢 クラリネット奏者
アンサンブル金沢で長年演奏を重ねる遠藤文江氏。学生時代に惹かれた現代音楽との出会いは、作曲家と対話しながら譜面を読み、音楽を立ち上げていく感覚を育み、その後の古典作品の解釈にもつながっていきました。チャールズ・ナイディックのもとで学んだ「Make sense」の考え方、コンクールやオーケストラの現場で音色を磨いてきた過程、そして若い世代を支えようとする現在の取り組みまで。遠藤氏の言葉から、音を考え、育てていく姿勢をうかがいました。
楽譜を読み、音を考え、自由に歌うために
現代音楽との出会いについて
遠藤さんは今回、アンサンブル・コンテンポラリーαの定期演奏会へご出演のため、東京に滞在されていらっしゃいます。現代音楽との出会いについて教えてください。
東京藝術⼤学に⼊って周りに本当に上⼿な⼈が多い中、⾃分はどこへ向かえば良いのだろう、と模索していた時に、⾯⽩いと思ったのが現代⾳楽だったんです。⼤学四年の時に、学内演奏会でシュトックハウゼンの《In Freundschaft》、卒業試験でイサン・ユンの《Riul》と⽴て続けに現代曲を取り上げたところ、当時はまだ珍しかったこともあり、「四年⽣が現代⾳楽ばかり取り上げるのは、後輩に与える影響を考えるといかがなものか」と、藝⼤で問題視されてしまったくらいでした。
三、四年の時に師事していた鈴⽊良昭先⽣は、私がレッスンに⾏くたびに先⽣のご存じない曲を持っていくものですから、「また遠藤が知らない曲を持ってきた」と困惑なさりつつも「次のレッスンまでに僕勉強してくる」と仰って、本当に⼀週間のあいだにたくさんのことを勉強してきてくださり、次のレッスンではいろいろなアドバイスをくださいました。新しいものを⼀緒に学んでくださる先⽣に恵まれたことは⾮常に幸せなことでした。
藝⼤で現代⾳楽に関わる経験の中で、他に印象に残っていることはありますか。
大学時代、作曲科の学生が⾃分の作品を実際に⾳にして発表する「試演会」に、私は演奏者として積極的に参加していました。 まだ学⽣同⼠ですから、向こうも⼿探りですし、こちらも⼿探りです。各楽器の⾳域は作曲の教科書のようなものに書かれているようで、クラリネットの⾳域いっぱいいっぱい使って超⾼⾳で超絶技巧を書かれることもよくあって…。「クラリネットの⾳域の中でも実際に演奏表現として⾃由に使える⾳域は…このくらいまでです…」という話をしたり、重⾳や微分⾳、その他クラリネットを使ってどんな新しい⾳が出せるのかなどの可能性を⼀緒に探ったり、そういうことを話し合いながら⼀緒に曲を作っていったこともありました。その作業は⾯⽩かったですし、今でも⾯⽩いです。
現代⾳楽って、明確なメロディのある曲と⽐べると、ただ⾳を並べるだけだと難解なだけで何が⾯⽩いのかわからない⾳楽になってしまったりすることがあると思うんです。でも、「楽譜に書かれていることはあくまでも記号なので、ただそれを機械的に再現するのではなく、作曲家がそれを書いた時に頭の中や⼼の中にもっていた意図、イメージ、⾊を想像して表現してみよう」という⽴ち位置に⽴ってみると、古典やロマン派の⾳楽よりもさらに演奏家に託される役割は多いのかもしれないと思うこともあって、それは結構⾯⽩いことだなと思っていました。意外と演奏家として⾃由にできることがたくさんある。どう演奏するかを考えないといけない。そうやって作品と向き合うことで作品に命が吹き込まれ、初めて意味を成すんだ、ということを、その頃から⾃然に感じていたと思います。その経験は、その後アメリカ留学において古典やロマン派作品を学ぶ際の捉え⽅にもつながっていきました。
アメリカ留学とチャールズ・ナイディック氏のもとでの学びについて
どのようなきっかけでニューヨークに留学にされましたか。
実はずっとフランスに⾏きたくて、フランス語を勉強して、⼤学三年の時に短期留学もしました。そして、帰国の際に、当時藝⼤の先輩が留学中に師事されていたチャールズ・ナイディック先⽣のレッスンを聴講させていただくため、ニューヨークに⽴ち寄ったのです。ナイディック先⽣のレッスンは既に講習会などで拝⾒したことがありましたが、ご⾃宅でのレッスンも全く同様で、何⼀つ妥協せずに先⽣が考えてらっしゃることを全て⽣徒に伝えようとなさる、すごいレッスンでした。私は、⾃分に⾜りないところを徹底的に鍛えていただくなら、この先⽣のもとではないかと思い、その時にニューヨークで学ぶことを決めました。
その学びとは、どのようなものだったのでしょうか。
アメリカは例えばヨーロッパのように「作曲家本⼈から直接聞いた」といった話が脈々と伝わる「伝承」というものが少ない国、ということもあったのだと思いますが、先⽣は曲を理解するにあたり、ご⾃⾝で徹底的に⾃筆譜や資料を調べて楽譜を分析してらっしゃいました。⽂化⼈類学を学ばれた経歴もお持ちの⽅ですので、「知らないことがあるのが我慢できない」といった、あくなき探究⼼を、いつも先⽣からは感じていました。先⽣はとにかくその作曲家や楽譜を研究し尽くすことによって、それぞれの楽曲を理解されていたと思います。作曲家⼀⼈ひとりについて、⾃筆譜を研究し、書き直された跡を⾒つけてはその理由まで考え、その全てを⽣徒に教えてくださる⽅でしたので、結果的に⽣徒への要求も⾮常に⾼いものになりました。
そんな先⽣によく⾔われたのが、“make sense” (理にかなう)という⾔葉でした。和声がこう動いている、伴奏形がこう変わっている、ほかの楽器が⼀回⽬と⼆回⽬で違うことをしている…など、楽譜から読み取れるそういったことを全部知った上
で、それらを拠り所として演奏することが “make sense” する、ということなんです。 これを習得するだけでも難しく、すぐにはできなかったんですが、それだけでは終わらず、先⽣のレッスンにはまだ先があります。楽曲と向き合って“make sense”した上で、さらに奏者自身の自由な表現が求められるのです。
一度 “make sense”するという感覚を身につけられたら、その後どんなに自由に表現をしようとも決して道を踏み外した表現はしなくなる、ということもよく仰っていました。この「make sense すること」と「その上で奏者自身の表現をすること」の2つがあって初めて、本当の意味でその奏者の演奏になる、とお考えなのではないかと思っています。
かなり密度の高いレッスンですね。大変だったのでは。
厳しかったです。本当に。
最初の頃、私は毎回アポイントを取ってご⾃宅にレッスンに通っていたんですが、ある時「まだ前回のレッスンで⾔われた先⽣の要求を全然満たせていない」と思って、次のレッスンをお願いする連絡をすることができなくなってしまったんですね。
そうしたら、奥様の⼤島⽂⼦先⽣からしびれを切らして電話がかかってきて、「こんな電話は⼀度しかしないけれど、全部のことができてからじゃないとレッスンを頼んじゃいけないと思ってませんか?」って。それで、「それじゃダメだから。そんな⽇は来ません!」と、はっきり⾔われて。 それで、その通りだと思って「先⽣、まだ出来てないんですけど…」と思いながらもレッスンに通うようになりました。
奏法に関しても同じことを何遍も何遍も⾔われるんです。「これは君にとって新しいインフォメーションじゃない」と、もう散々⾔われながら、「分かってます、分かってます」って、だんだんもう笑いが出てきてしまって。そうしたら、「僕は真剣なのに、なんで君は笑ってるんだ」と⾔われて、「私も真剣なんですけど、できないんです!」って。そういう応酬でしたね。
もう、先⽣ご⾃⾝の学ばれるスピードが速すぎて、⽣徒はどんなに頑張ってもその差は開くばかりです。3年間の⾮常に
密度の濃い留学⽣活でしたが、まだまだ学びたいことが⼭ほどある中、断腸の思いで帰国をいたしました。
写真右:恩師であるチャールズ・ナイディック氏と大島文子氏。霧島音楽祭にて。
コンクールと音色について
コンクールについては、どのように捉えていらっしゃいましたか。
コンクールに関しては、これも多分、私は⼈とは全然違う感覚を持っていたんだと思います。
もちろん⼤学⽣の頃は、⾃分にどのぐらいの⼒があるのか、他の⼈と⽐べてどうなのかを知る場として、また上⼿な⼈の演奏を聴く場として考えていました。けれど、留学中に受けた⽇本⾳楽コンクールで初めて本選に残していただいた時に、⾃分の中で捉え⽅が⼤きく変わりました。
本選では、審査員の⽅々の中で私に対する評価が⼤きく分かれ、結果は最下位でした。その本選の課題はモーツァルトだったのですが、私はナイディック先⽣のところで勉強中のことを、そのまま強く出していたんですね。⼀般的には「曲がそのままで美しいのだから、素直に演奏すれば良い」と思われているモーツァルトの協奏曲を、かなり積極的な表現で演奏したと記憶していますし、当時は、最近のようにバセットで吹く⽅も、オーナメントを⼊れる⽅もまだいらっしゃらない中、数箇所オーナメントも⼊れたりしていました。
当時の私が信ずる演奏をさせていただいたのですが、残念ながら評価はしていただけなかった…。そのことをとても真摯に受け⽌めました。アメリカでナイディック先⽣のもとですごく多くの素晴らしいことを勉強してきましたけれど、当時の私がそれをそのまま出したのでは、受け⼊れていただけないんだな、ということをすごく感じたんです。 ナイディック先⽣に教わったことをもちろん捨てたくはない、だけど演奏した時に、聴衆の⽅たちがそれをいいと思ってくださらなければ、それは私の⾃⼰満⾜でしかなく、アマチュアの域を出ないと思ったんですね。
なので、⽇本でプロとしてやっていくには、⾃分の信じることをやりつつ、聴衆、中でも審査員の⽅々に、いいと思っていただけるようにならなくてはいけない。それにはどうしたらいいんだろうか、と考えるようになりました。それをプレゼンし、回答をいただく。プレゼンし、回答をいただく。私にとってコンクールは、そういう場でした。
その過程で、具体的に見直していったことはありましたか。
⽣きてる⾳、ですね。ナイディック先⽣の教えだと、⾳楽の中ではそこに留まっている⾳はほとんどないんです。アメリカのチャイムって、押してる間だけまっすぐに⾳が鳴る、ジーって⾳なんですよね。よくレッスンの中で、「ドアベルのように吹くな」と⾔われていました。すべての⾳はどこかに向かっている。戻ってくるなり、前に向かっていくなり、いろんな⽅向を持ちながら、どこかに向かって動いているものだ、と。そういうことをすごく⾔われていました。
でもそれを考えると、よくなりがちなのが、具体的に⾔うと後押し(1つの⾳を途中で膨らませること)なんですね。動きを持とうと思えば思うほど、⾃分の意図しない不⾃然な息の流れになってしまうことがある…なので、⾳の⽅向性を作りながらも、後押しにならないようにすること。発⾳のことからもすごく考えましたし、あとは⾳⾊ですよね。動きが多い演奏になっていくと、少し詰まったような⾳だと、途端にその動きがうるさく聞こえてくるんです。なので、その動きがうるさく聞こえないような⾳⾊にするにはどうしたらいいだろうか、ということも考えました。
その作業は、いろんなコンクールを受けるのと、アンサンブル⾦沢のオーディションを何度も受けていたことと、完全に同時進⾏でした。アンサンブル⾦沢でエキストラ奏者として演奏させていただく中でも、コンクールの批評でも、⾳⾊を磨く必要性を指摘されていましたので、私はそこをしっかりやり直さないといけないんだな、と思いました。
そこで思いついたのが、歌う声と演奏する時の⾳との共通点でした。藝⼤にいた頃から、合唱などで歌っている時の声と、その⼈が楽器を吹いた時の⾳には、すごく共通点があるなと思っていたんです。歌う声が細い⽅は、クラリネットの⾳も若⼲細めだったり、反対に、歌う声がすごく温かい⽅は、クラリネットもすごく温かい太い⾳で吹かれる。だったら、⾃分は発声を学んだらいいんじゃないかと思いました。 それで、呼吸と発声を当時藝⼤講師でいらした声楽家の先⽣から本格的に教わりました。腹式呼吸とは何か、なぜ必要なのか、背中をどう使うのか。最初のレッスンで「背中を考えるだけで⾳の豊かさはまるで変わります」と⾔われて、そこから本当にいろいろなことを教わりました。そのきっかけでクラリネットの⾳が変わって、アンサンブル⾦沢の現場でもすぐに「⾳変わったね」と⾔っていただくことができました。
最終的に、⼀番最後に受けた⽇本管打楽器コンクールで⼀位をいただくことができたんですけれど、その時まで、⼤島⽂⼦先
⽣は私のコンクールの歴史をずっと⾒てくださっていました。⽇本にいらっしゃる時はずっとレッスンを受けていたんですけれど、最後のコンクールだけは、⽂⼦先⽣のお⼒を借りずに、⾃分が⽇本でやっていけるかどうか、ここに賭けてみようと思って、⼀切連絡をせずに受けたんです。審査員でいらっしゃるのもわかっていたし、⽇本に帰ってきていらっしゃるのも知っていたんですけれど、それでも連絡をしませんでした。
終わった後に「なんで連絡してこなかったのよ」と⾔われましたけれど、こういうつもりで受けていました、とお話しして。⾃分の本当の⼒で受けてみたいと思って受けたコンクールで、⼀位をいただけて、これで私はようやくプロとしてやっていくことができる、免許をいただいたような気持ちになりました。
日々の演奏や練習の中で、今も大切にしている基盤は何でしょうか。
声ですね。
私はそこを信じてずっとやってきているので、本当に⾃分が歌う感じで⾳が出せていたらいいな、ということをすごく思っています。
オーケストラ・アンサンブル金沢での経験について
アンサンブル金沢での経験についてもお聞かせください。
私は岩城宏之⾳楽監督の時代に⼊団したのですが、試⽤期間中に岩城さんから呼び出されたことがあって、何の話だろうと思ったら、「周りに合わせようとしてるだろ」と⾔われたんですね。せっかく⾯⽩いと思って⼊れたのに、それをやっていてはだめだ、と。このオーケストラでは、管楽器は特に全員対等であるべきで、みんなの中に隠れて吹くようなことをやってはいけない、とおっしゃっていました。もちろん、好き勝⼿やっていいわけではありませんし、⾃分に与えられている役割など、バランスを考えながらやっていかなければなりません。ですが、基本的な考え方としてはオーケストラでありながら室内楽の要素が強く、弦楽器やいろんなパートと対話をしながら、とにかく⾳楽をしていかないといけない。オーケストラだからこれをやってはいけない、あれをやってはいけない、という場ではなくて、むしろ⼀⼈ひとりが考えながら積極的に⾳楽をしていくことが求められるんです。クラリネットの団員は2⼈ですが、⾸席制度がありませんので1番、2番を交代して担当しています。この、1番も2番も演奏できる、ということもこのオーケストラの魅⼒の1つだと思っています。
現在の活動と財団について
現在の活動についてもお聞かせください。
現代⾳楽は、今も続けています。学⽣時代とは少し状況は変わっていて、今は、より完成された作品や、経験を積んだ作曲家の作品に向き合うことが多くなっています。それでも、書かれた⾳をただ再現するのではなく、そこから空気感をどう⽴ち上げるか、作品にどう命を吹き込むかという作業は、今でも⾮常に⾯⽩いですね。
現代⾳楽には、⾳の出ていない時間も含めて独特の空気があると感じています。その緊張感や空間の質感をどう作るかということは、古典やロマン派の作品にもどこか通じるところがあると思います。それに、技術的にも本当に難しい。オーケストラの仕事を⻑く続けていると、どうしても⽇々向き合うレパートリーはある程度定まってきますから、そういう中で⾃分を奮い⽴たせるというか、⾃分を律するためにも、新しい作品に向き合う機会はとても⼤事だと思っています。
演奏活動に加えて、若い世代を支える取り組みにも関わっていらっしゃるそうですね。
はい。優秀なクラリネット奏者であった吉⽥光志朗さん、吉⽥悠⼈さんご兄弟を若くして亡くされたご両親が昨年設⽴された⾳楽基⾦の財団法⼈で理事⻑を務めさせていただくことになり、現在、活動の準備を進めているところです。若い⾳楽家の学びや演奏活動を⽀援していきたい、という出資者様の思いから始まった取り組みです。
今、中⼼として考えている⼀つが、クラリネットに特化した留学助成です。年間でお⼀⼈かお⼆⼈程度になるかと思いますが、これから海外で学びたいと思っている若い奏者を⽀えたい。また、留学から帰ってこられた⽅がリサイタルを開く際の開催補助や、若い奏者の演奏会への助成も視野に⼊れています。
その背景には、今の留学環境の厳しさがあります。為替の問題もありますし、物価も上がっています。ヨーロッパでも、以前のように学費がほとんどかからないとは⾔えなくなってきていて、⾮EU圏の学⽣に追加の学費が課されることも増えています。そういう状況の中で、留学したくても諦めざるを得ないという話を、実際によく⽿にします。もし少しでも援助させていただくことによって、そうした夢を⼿放さずに勉強へ向かっていただけるなら、⼤変意義深いことと思っています。
楽器について
今お使いの楽器についてうかがいます。
私が楽器にいちばん求めているのは、「自分の声」になることです。こういう音色がほしい、ここではこういう色が必要だ、和声の中でこう収まっていく音がほしい。そういうイメージに、できるだけ応えてくれる楽器であってほしいんですね。
聴いているお客様の中にも、きっと「ここでクラリネットがこう入ってくるだろう」というイメージがあると思うんです。私はそれを、いい意味で少し裏切りたいと思っていて、「うわ、こう来たか」みたいな、予想の上をいくような音色を出したいなって。贅沢なんですけれども。やっぱりそれに応えてくれるのは〈ビュッフェ・クランポン〉の楽器だと思っています。今は“Tosca”を使っていて、その前は“Festival”を使っていたんです。両方とも、すごく私の要求に応えてくれるいい楽器でした。
〈ビュッフェ・クランポン〉との関わりの中で、印象に残っていることはありますか。
この質問だと絶対にお話しせずにいられないエピソードがありまして。もう⼗何年前になるんですけれど、⼤阪のザ・シンフォニーホールで、グリーンラインの楽器を持ってステージ上の雛壇を上がっている時に転んでしまって、A 管を折ってしまったことがあったんです。
2時間半後にブラームスの交響曲第4番メインのコンサートが始まる…。震える間もなく対処に追われていたその時に、〈ビュッフェ・クランポン〉の⼤阪営業所の⽅が、お休みの⽇にも関わらずお電話に出てくださり、地元楽器店さんへ楽器をお借りしに⾏って、ホールまで届けてくださいました。「私が届けますから、遠藤さんはお気持ちをゆったりもってお⾷事でもとられて本番に備えてください!」と仰っていただけた時に⼼の底から湧き上がった感謝と安堵感は忘れることができません。
私はそれまでも、⾃分⼀⼈の⼒で演奏しているなんて思ったことはありませんでしたけれど、本当にこんなにも親⾝になって寄り添って助けてくださる⽅がいらっしゃるんだな、とどれだけ⼼強く思ったかわかりませんでした。そういう⽅がいらっしゃるおかげで、私は今演奏できているのだということを、その時に強く思いましたし、それから先も、ずっとそう思いながら仕事をしてきました。
二百周年を迎えた〈ビュッフェ・クランポン〉に、どのような思いをお持ちですか。
これまで本当に多くのクラリネット奏者が、〈ビュッフェ・クランポン〉に寄り添ってもらいながら、それぞれの時を紡ぎ、演奏してこられたのだと思います。私も⼈⼀倍、その思いが強いです。〈ビュッフェ・クランポン〉さんがいたからこそ、私は今までこうやって⼆⼗何年もオーケストラでやってこられていると思います。このご恩は決して忘れません。これからも、いろいろなクラリネット奏者を⽀え、寄り添ってくださる、パートナーであり続けていただきたいと願っています。
ありがとうございました。