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大浦綾子

大浦綾子氏 インタビュー|東京佼成ウインドオーケストラ クラリネット奏者

東京佼成ウインドオーケストラで演奏活動を続ける大浦綾子氏は、クラリネットを吹くことを「演じる」ことだと語ります。作曲家が楽譜に込めた感情や情景などの意思を読み取り、とにかく目の前の音楽に没頭すること。そこに邪念があってはならない。そこにこそ、演奏の出発点があると大浦氏は言います。

その考えは、緊張との向き合い方、息と発音による表現、吹奏楽におけるクラリネットの役割、そして学生たちへの指導にも一貫して流れています。演奏家として、教育者として歩んできた大浦氏ならではの言葉を伺いました。

音を演じる、クラリネットを吹く

「クラリネットを吹く」とは、音を演じること

――今の大浦さんにとって、「クラリネットを吹く」という行為は、どのような意味を持っていますか。

私にとって、クラリネットを吹くというのは、「演じる」という意味が強いですね。演奏するというのは、役者と同じだと思うんです。役者には脚本家が書いた台本があって、それをどう演じるかがある。音楽家の場合は、作曲家が書いた曲があって、その曲に込められた思いや感情、風景、表現したいことを、演奏家が演じるわけです。だから私にとってクラリネットを吹くというのは、やはり「演じる」ことなんだと思います。

演じて奏でる、まさに「演奏」ですね!

――演奏家であり、教育者でもいらっしゃいます。この二つの立場は、ご自身の中で分かれていますか。

まったく同じです。仕事としては「演奏すること」と「教えること」がありますけれど、基本的にはやはり、自分は演奏家なんだろうなと思っています。

音大生をレッスンしていても、「ここまでできればいい」という線引きが、自分の中でなかなかできないんです。音楽に「これでいい」はないので、どうしても一番高いところを求めてしまう。ブラームスなんか持ってこようものなら、こちらが興奮してしまって、少し落ち着かないと次のレッスンができないくらいです。

だから、いわゆる「うまく教える先生」とは違うのかもしれません。ただ、自分が音楽に向かう姿を見てもらう、背中を見て育ってもらう、という部分はあるのかなと思っています。できる限り、その人に合わせてレッスンしようとは思うのですが、始まるとこちらが音楽に没頭してしまうところがあります。

――音楽に誠実であることをとても大事にされている印象があります。その姿勢がいちばん問われるのは、どんな瞬間ですか。

これはもう、自分の生涯のテーマですね。

私は若い頃、ものすごく「あがり症」だったんです。佼成に入ったばかりの頃も、ソロを任されるとひどく緊張していました。どうしてこんなに緊張するんだろうと考えたときに、「評価されたい」とか、「失敗したくない」とか、そういう邪念があるからなんじゃないかと気づいたんです。

でも、それって音楽を使って自分をよく見せようとしている、ということですよね。それは違うな、と思いました。それ以来、できるだけ目の前の音楽に集中する、自分はただ、作曲家が書いたことを表現することに没頭する、評価はそのあとについてくるものだ、と考えるようになりました。聴いた方が何かを感じてくだされば、それでいいんです。

試験や本番で緊張するのは当然です。でも、その中に「普段以上に吹けたらいいな」とか、「うまく見せたい」といった邪念が混ざると、やはり苦しくなる。だから生徒にも、やることはただ目の前の音楽に没頭することだよ、と話しています。もちろん、自分自身もいつも完璧にできるわけではありません。でも、できるだけそうして本番に臨もうと思っています。

――その考えに至ってから、緊張の仕方も変わりましたか。

そうですね。緊張そのものがなくなったわけではありません。でも、緊張感は持っていても、昔のようにガタガタに「あがってしまう」ということはなくなったと思います。

それから、何かを選択するときは、「どちらがより音楽的か?」「どちらがよりお客様に喜んでいただけるか?」を常に考えるようにしています。たとえそれが自分にとってやり辛い事であっても、迷わずそちらを選択したいです。

大浦綾子
大浦綾子(おおうら・あやこ)氏 プロフィール|東京佼成ウインドオーケストラ奏者。洗足学園音楽大学客員教授、名古屋芸術大学非常勤講師。武蔵野音楽大学卒業、東京藝術大学大学院修了。日本音楽コンクール、日本管打楽器コンクールにおける入賞・入選を重ね、フランス留学を経て、パリ12区コンセルヴァトワールを満場一致の一等賞で卒業。ソリスト、オーケストラ奏者、教育者として幅広く活動を続けている。

表現を支えるのは、自由であることよりも、本質を捉える解釈と息の使い方

――表現の自由とコントロールのバランスについては、どのようにお考えですか。

私は、「表現の自由」というものは、実はそれほど重要ではないと思っています。フランスで師事したギィ・ドゥプリュ先生からは、モーツァルトならモーツァルトらしく、ドビュッシーならドビュッシーらしく、ストラヴィンスキーは書いてあること以外は一切やってはいけない、と繰り返し言われました。演奏家の使命は、作曲家が書いたことを聴衆に伝えることだと思うんです。

では、なぜ人によって演奏が違うのかといえば、それは伝え方の違いです。山に登るのに、歩いて行く人もいれば、車で行く人も、自転車で行く人もいる。でも目指している頂上は同じです。いい音楽というのは同じで、そこへ至る手段が違うだけなのではないかと思っています。

――自由というより、作曲家の本質から外れない範囲での解釈、ということですね。

そうですね。本質を見極めることが大事なんだと思います。たとえばレッスンで、デタシェで書いてあるけれど、その子は舌が遅い、という場合があります。でも作曲家が本当に表したいのが「音を切ること」ではなく、「スピード感」だとしたら、そこにこだわりすぎる必要はないかもしれない。タタタタタと吹くことより、駆け上がる勢いのほうが本質なら、スラーにしてでもそれを表したほうがいいこともあります。何がいちばん大事なのか、何をいちばん表したいのか。そこを見失わないことですよね。

――大浦さんのお話には、「音色」だけでなく「発音」という言葉もよく出てきます。クラリネットにおいて、発音はやはり重要ですか。

とても大事です。音楽を表現するには、どれだけ音色の幅、引き出しを持っているかが大事で、音色を変えるとき、音の出だし、つまり発音が大きく関わってきます。美しい音を出したければ美しい発音が必要ですし、激しい表現をしたいのに、ほわっとした発音ではできません。逆に、柔らかい表現をしたいのに、ぺっと出てしまったら違うものになります。

最近よく言うのは、表現を変えたければ、発音の仕方も変えなければだめだよ、ということです。みんな音色ばかり考えがちなんですけれど、発音まで考えないと変わってこないんですよね。

――その表現の違いは、実際には何によって決まってくるのでしょうか。

圧倒的に息ですね。管楽器は息で鳴らす楽器ですから。

人間は普段の生活の中で、いろいろな息を使い分けています。手を温める息、ろうそくを消す息、ため息、吹き矢を吹く息。でも楽器を持った瞬間に、一種類の息しか使わない生徒がとても多いんです。息は見えないので、自分でも何をしているかわからないんですよね。

まず、どういう表現をしたいのかがあって、そのためにはどういう息が必要なのかを考える。そのあとで、それを実現するためにどういうアンブシュアが必要か、どういうタンギングが必要か、という順番だと思います。強い息を使いたいのに口が緩んでいたら、音は広がるだけですし、柔らかい音を出したいのに締まりすぎていたらうまくいかない。どういう息を使うかで、アンブシュアも決まってくるのだと思います。

――その息の使い分けは、どうやって身につけていくのでしょうか。

やはり「演技」なんです。

この音楽は何を表したいのか、ということを本当に感じられたら、必要な息は自然と変わってくるはずなんです。でも、そこが結びつかない。例えば、叫ぶようなフレーズがあると、私はレッスンで、「楽器を置いて叫んでみて」と言うことがあります。すると、ちゃんと大きな声が出るんですよ。では、それをそのまま楽器でやってみて、と言うと、ちゃんと楽器で表現できる。つまり、できないのではなくて、楽器を持つと演技に思い切りが足りなくなるんでしょうね。

――学生さんには、指と息と舌を同時に考えることが大事だともおっしゃっています。

そうです。三本立てです。

でも、上達が止まりがちな人ほど、見落としやすいのは息と舌ですね。指は見えているから、みんな意識するんです。でも舌は見えない。どこで舌をついているか、アーティキュレーションがどうなっているかを、意外と意識していない人が多い気がします。

――「きれいな音」を目指すことと、音楽の表情を生きたものにすることは、別の話でもあると思います。

基本となる美しい音は、絶対に必要だと思います。でも、それだけではだめなんですよね。そこからどれだけ音色を変えられるかのほうが大事です。

普段みんな、自分が持っているいちばん美しい音で吹いていると思うんです。でも、その音は曲の中の、いちばん美しく吹くべき場面で使えばいい。その音だけでは音楽にならない。叫ぶような音にも変えられなければいけないし、場面が変われば、その場面に合わせて音色も変わらなければいけない。そういう意味で、基本の美しい音と、表現のための変化の両方が必要なんだと思います。

大浦綾子
大浦氏は、息と表現の話の延長で、「お芝居のできる人が楽器を吹いたら、すごく上手なんじゃないかと思う」と話した。演劇やダンスなど、楽器を持たない表現経験は、音楽の幅を広げるはずだという。見えない「息」を扱うからこそ、身体で感じ、演じる感覚が生きてくるのかもしれない。

吹奏楽の現場で見えてくる、クラリネットの役割と教育観

――吹奏楽でクラリネットを吹く面白さは、オーケストラや室内楽とはまた違う魅力があると思います。  

吹奏楽の中のクラリネットは、ある意味、オーケストラでいうヴァイオリンセクションのように、メロディーを担うことも多いので、そういう意味では「演技」をする場面が多く、やりがいがあります。

ただ音を伸ばすだけでも、それが悲しみに打ちひしがれた伸ばしなのか、喜びに満ちた伸ばしなのかでまったく違いますから。吹奏楽の木管セクションは、やはり歌えなければいけない。その意味での面白さはとても大きいと思います。

それから、クラリネットの音は吹奏楽のサウンドの土台を作っているとも思っています。本当はエスクラからコントラバスクラリネットまで、クラリネット族が充実していて、木のサウンドをしっかり響かせることで、バンド全体の音色は全然違ってくるんですよね。だから、もっともっとクラリネットが増えてくれるといいなと思います。

――吹奏楽作品に長く向き合ってこられた中で、この音楽ならではの難しさや奥行きを感じることはありますか。

やはり、オーケストラと圧倒的に違うのは、弦楽器がいないことですね。それから、レパートリーがまだ少ない。歴史が浅いので、吹奏楽はまだ発展途上だと思うんです。

でも最近は、魅力的な吹奏楽曲が本当に増えてきました。芸術的な曲がようやく増えてきたという感じがします。昔は、お客様を満足させるような芸術的な楽曲がまだ少なかったので、オーケストラ作品を編曲して演奏するしかないところもありました。でも今は、オリジナル作品だけでも一晩支えられるような曲が増えてきた。そういう曲はやはり表現力が問われますし、その意味で難しさもありますが、やりがいもとても大きいです。

――今の学生の強みは、どこにあると感じていらっしゃいますか。


技術力は上がりましたよね。私が学生だった頃に比べると、格段に。昔は吹けなかったような曲を、今の子たちは平気で吹いていますし、ジャン・フランセのコンチェルトのような作品も、今はずいぶん身近になっていると感じます。

――では逆に、見落としやすいことはありますか。

楽譜の読み方だと思います。みんな、楽譜を読むというと「音を読むこと」だと思っているんですよね。でも、本当に大事なことは五線の上下にたくさん書いてある。タイトルからそうです。

タイトルがわからないと、何を表しているのかもわからない。たとえばフランス語で「悲しく」と書いてあるのに、その意味がわからなければ、明るく吹いてしまうこともある。だから、楽譜に書いてあることはすべて理解しておかないといけない、とよく言っています。器用に吹けるようにはなっているけれど、教養の部分はもっと深められるはずだと思います。

――学生を指導される中で、技術的な成長を支えることと、音楽を好きでい続けてもらうことは、どのようにつながっているとお考えですか。

できなかったことができるようになったり、音楽の奥深さをもっと知ることで、さらに音楽を好きになるのだと思うんです。少なくとも、自分がそうでした。だから私は、そのお手伝いをするだけなんだと思っています。

私は、いわゆる「楽しいレッスン」が得意なタイプではないのですが、中学のときの顧問の先生が、本当に音楽の好きな方だったんですね。ベートーヴェンの《運命》を聴く授業で、ある箇所で突然先生が「僕は、ここが好きなんや~!!」としみじみおっしゃった。その姿を見て、音楽って大人がこんなふうにわくわくしたり感動したりするものなんだ、と伝わってきたんです。

だから、自分が情熱を持って音楽に向き合っていれば、その姿を見て、学生たちも何かを感じてくれるのではないかと思っています。

――最後に、今クラリネットに真剣に向き合っている学生の方たちに、「上達」よりも先に大事にしてほしいことがあればお願いします。

今の学生さんを見ていると、ときどき順番が逆になっていると思うことがあります。

曲を与えられたときに、とりあえず音を並べるのでなく、最初に「何を表現したいか」「どういうふうに演奏したいか」というビジョンを持ってほしい。まずこういう演奏にしたい、というものがあって、そのために、ここは指が回らないからさらう、ここは音色がうまくいかないから研究する、という順番でやってほしいんです。

クラリネットが上手になることが最終目的なのではなくて、何のために上手になりたいのか、そこが大事なんだと思います。

フランスで得た視点と、現在の楽器観

――フランスで学ばれたことが、奏法だけでなく、音のイメージやフレージング、音楽の考え方に影響を与えた部分はありますか。

フランスだから、ということではないんですけれど、逆に「いい音楽って一つなんだな」と思ったんです。
例えばブラームスのソナタで言うと、藝大で学んだドイツ的な伝統の中で教わったことと、フランスに留学してギィ・ドゥプリュ先生に習ったことが、まったく同じだったんですね。だから、どこから山を登るかは違っても、目指している頂上は同じなんだなと思いました。

誤解を恐れずに言うと、「いい音楽は一つじゃない」とよく言いますけれど、私はあまりその言葉が好きではないんです。特にモーツァルトのような古典には絶対的なフレーズ感や和声感があって、西洋音楽には楽器に書かれていない約束事がたくさんあります。日本人には血の中にないものかもしれませんが、西洋音楽をやっている以上、それは勉強しなければいけない。新しい言語を学ぶのと同じです。

そこを無視して、「自由だから」といって演奏するのは、私は少し違うのではないかと思っています。

大浦綾子
大浦氏がフランスで強く感じたのは、音楽が生活に溶け込んでいることだったという。
部屋の前を通る親子、窓の外の作業員、パン屋のおばさん――誰もが音楽を遠いものとしてではなく、暮らしの中のものとして受け止めていた。
「子どもが騒いだら、お父さんが『ここには音楽家がいるんだから静かにしなさい』と言ったんです。日本だったら、まず『うるさい』と言われそうですよね」
「部屋で練習していたら、窓の外で作業していたおじさんが、私の吹いたフレーズを口笛で返してくるんです。じゃあこれはどう、と思って難しい現代曲のようなフレーズを吹いたら、向こうも『それは無理だよ』みたいになって(笑)。みんなが音楽を好きなんだなと思いました」
「パン屋さんの向かいの部屋でモーツァルトの《レクイエム》が大音量で流れていて、パン屋のおばさんが『まったく、また《レクイエム》よ』と言うんですよ。ああ、文化なんだな、と思いました」

――現在お使いの〈ビュッフェ・クランポン〉“Divine”には、どのような魅力を感じていらっしゃいますか。

それまでは“Prestige”をとても気に入って使っていたんですけれど、私は表現したいと思うあまり、少しコントロールを失うことが時々あったんです。たとえばテンションMAXで吹いたときに、必要以上に音や発音が荒れてしまうことがあった。

“Divine”は、それを楽器が助けてくれる感じがして、今はとてもやりやすいです。思いきりガツンと吹いても、くっと音がまとまってくれる。そこがすごく気に入っています。

それから今は、「楽に吹ける」ということもすごく大事です。年齢を重ねると、若い頃と同じだけの息の量はどうしてもなくなってきますし、その中で良い演奏をするには、重すぎる楽器では最後まで吹き切れないし、コントロールも失いやすい。そういう意味でも、“Divine”は自分に合っているのかなと思います。

――学生さんに楽器選びの相談を受けた時には、どのような観点で見るように伝えていらっしゃいますか。

その人の息が乗る楽器、ということですね。
ただスケールを吹いて選ぶのではなく、何か自分が吹けるフレーズを吹いてごらん、と言います。そこにいちばん自分の思ったように息が乗って、歌える楽器が合っていると思うからです。だから、その人の息に合った楽器を選ぶようにしています。

――長年親しんでこられた奏者として、〈ビュッフェ・クランポン〉について感じることがあれば教えてください。

私にとっていちばん大事なのは、どれだけ音色の幅があるか、ということなんです。そういう意味で、私の思う表現を実現させるために、〈ビュッフェ・クランポン〉は欠かせない存在だと思っています。

それから、合奏の中での音程ですね。すごく音程がいいし、低く取っても高く取っても、ちゃんと良い音で鳴ってくれる。なので、合奏でもとても助かっています。今は本当に、何の心配もなく吹いて、ぴたっと周りに合ってくれるので、それは大きいですね。

――ありがとうございました。

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