杉原由希子氏 インタビュー|日本フィルハーモニー交響楽団 首席奏者
日本フィルハーモニー交響楽団 首席オーボエ奏者として活躍する杉原由希子氏。
中学1年生のときに聴いたオスロ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏は、杉原氏にとって大きな転機となりました。仲間と一小節を徹底的に作り上げた学生時代、日フィル入団後に直面した苦闘、そしてドイツ・マンハイム音楽大学での留学を通して経験した挫折と気づき。音楽と真摯に向き合い続けるなかで辿り着いた現在地について、率直に語っていただきました。
舞台に立つと決めた日から ― 音が描く風景を信じて
― まず、オーボエを始められたきっかけを教えてください。
きっかけは中学校の吹奏楽部です。もともとはバスケットボール部に入るつもりでしたが、吹奏楽部がとても熱心で、せっかく何かを始めるなら本気で取り組める環境に身を置きたいと思い、入部しました。
入部当初からオーボエを強く希望していたわけではありません。ただ、「みんながやる楽器は選びたくない」という気持ちがあり、オーボエという楽器の名前は知っていたので、先生に「オーボエはありますか」と尋ねたところ、一本あると言われました。音色のイメージも分からないまま始めましたが、不思議と音はすんなり出て、吹くこと自体が楽しく、練習するうちにいつの間にかオーボエに夢中になっていました。
― オーケストラ奏者を志したきっかけは何だったのでしょうか。
中学1年生のとき、母が新聞の募集に応募し、抽選で当たったオスロ・フィルハーモニー管弦楽団のサントリーホール公演を聴く機会がありました。指揮はリッカルド・シャイー、曲は《ローマの松》。それが、私にとって初めて聴くプロの演奏でした。
座席は舞台の横で、演奏によって空気が震えるのを体で感じました。その迫力に圧倒され、これだけの人が同時に音を発すると、こんな世界が生まれるのかと衝撃を受けました。大興奮の中で、「聴く側」ではなく「舞台に立つ側」になりたいと強く思い、その瞬間、後先を考えずにオーケストラ奏者になると心に決めました。
人生で初めて体験したオーケストラの演奏について、「音によって空気が震えているのを感じるほどの大迫力だった」と語る杉原氏。
「一小節を全員でこだわりをもって作る」感覚
― 学生時代の経験の中で、特に今につながっていると感じることはありますか。
愛知県立芸術大学時代は、本当に仲間に恵まれました。受験の頃からご指導いただいていた和久井仁氏が、大学でも常勤で教えていらした時期でもありました。
在学中は木管五重奏を組み、とにかく多くの曲に取り組みました。一小節をどう作るかを徹底的に話し合い、細部までこだわって音楽を作っていきました。
オーケストラは大人数で演奏しますが、本質はアンサンブルです。木管五重奏で一小節にこだわり、お互いに切磋琢磨した経験は、現在日本フィルハーモニー交響楽団で演奏している今にも直結しています。
また、先輩方にも本当に助けていただきました。人数の少ない楽器同士ということもあり、管打楽器の中で自然と絆が深まりました。毎週木曜日の朝8時30分に点呼で集合し、顔を合わせる時間がありましたが、そうした何気ない積み重ねが人とのつながりを育ててくれたと、今でも感じています。試験もお互いに聴き合い、「みんなで上手くなろう」という空気がありました。その環境が自分を大きく成長させてくれました。
学生時代、仲間と純粋に音楽に向き合った時間が今につながっていると語る杉原氏。
入団後 2、3年の苦闘と、第九の夜の涙
― その後、日本フィルハーモニー交響楽団に入団されましたが、入団当初の思い出について教えてください。
日フィルのオーディション前、アレクサンドル・ラザレフ氏が指揮する公演に、1st オーボエとしてエキストラで呼んでいただき出演しました。チャイコフスキーの序曲でソロの多い作品を演奏したこともあり、公演後のカーテンコールでは、ラザレフ氏が私を指揮台まで連れて行ってくださいました。その経験は大きな自信になりました。
そのコンサートの後、オーディションを経て入団することになりました。ただ、入団後には厳しい現実が待っていました。初めて演奏する曲ばかりで、譜読みとリード作りが追いつかなかったのです。最初に迎えた第九のシーズンでは思うように吹けず、カーテンコールが終わって舞台を下りたあと、悔しさで涙が出たこともありました。
自分は器用なタイプではないと自覚していて、最初の2、3年は特に、リード作りのペースを掴むのに本当に悩みました。周りの方々に相談しながら、さまざまな材料やチューブを試し、自分に合うものを探し続けました。今も試行錯誤は続いていますが、徐々に対応できるようになってきたと思います。
― 首席オーボエ奏者として、日々大切にしていることは何でしょうか。
自分ができるベストの演奏をしたいと思っています。昨日よりも進化できているか、自分の限界を少しでも超えられているか。より良い音で、より良いリーダーシップで、より良いアンサンブルを作れているかを、常に考えています。
ラザレフ指揮《シュスタコーヴィチ11番》で体感した、音楽が生む風景
― 素晴らしい演奏会をたくさん経験されていると思いますが、特に印象に残っている演奏会はありますか。
2015年3月、アレクサンドル・ラザレフ氏の指揮によるシュスタコーヴィチ交響曲第11番《1905年》です。
この作品にはさまざまな解釈がありますが、ロシアのペテルブルクで起こった「血の日曜日事件」の情景が描かれています。ラザレフ氏の作る音楽から、その場の空気の温度や霧がかった暗さ、そしてそこから朝日が昇っていく気配までもが伝わってきました。演奏している席にいながら、まるでその風景が目の前に広がるように感じられました。
人の死を音で描く、非常に重い題材の作品です。演奏しながら胸がえぐられるような思いもありました。音楽がここまで具体的な世界を生み出すことができるのかと実感し、特別な感覚を味わった演奏でした。
日本フィルハーモニー交響楽団の公演でラザレフ氏と共演された際の写真。写真中央がラザレフ氏、右隣が杉原氏。
写真提供:日本フィルハーモニー交響楽団
「つまらない」と言われて気づいた心の枯渇
― ドイツ・マンハイム音楽大学への留学について教えてください。
日フィルに入団して6年後、念願だった留学が実現しました。留学前はオーケストラの活動にも慣れてきた頃ではありましたが、自分はこれからどのような演奏をしたいのか分からなくなり、大きな壁にぶつかっていました。その頃は、日々「全然うまくいっていない」と強く感じていました。
そんな悩んでいる時期に、たまたま日フィルのヴァイオリンの同僚が「アフィニス夏の音楽祭」に一緒に応募しようと、締め切り前日に声をかけてくれました。小林研一郎氏の指揮で演奏したモーツァルトのコンチェルトの音源があったので、それを提出し、幸い参加することができました。
そこでエマニュエル・アビュール氏に出会いました。音楽祭中、オーケストラで彼の演奏を聴いたとき、オーボエが鳴った瞬間に空気や色が変わるように感じ、改めてオーボエの魅力に気づかされました。無理なく、自然にホールへ音が届くその音色に触れ、「私はこういうオーボエを奏でたい」と直感しました。
音楽祭は約1週間の開催でしたが、最後のパーティーで思い切ってアビュール氏に「あなたのもとで勉強させていただきたい」と伝えました。すると「来年の夏から席が空くのでおいで」と言っていただき、すぐに準備を始め、翌年8月からマンハイム音楽大学へ留学しました。
あのとき同僚に声をかけてもらわなければ、この出会いはなかったと思います。今でも本当に感謝しています。
― 実際に留学されてみて、どのような日々でしたか。
アビュール氏はとても穏やかな方ですが、レッスンでは「つまらない」と言われることも少なくありませんでした。「つまらない」という日本語だけはご存じだったようで……。「もっとアイディアはないのか」と。けれど当時の私は、自分の中が枯渇しているような感覚があり、まったくアイディアが浮かびませんでした。彼のもとで学ぶ中で、自分の音楽性をもっと豊かにしなければならないという課題が、はっきりと見えてきました。
また、身体の使い方や奏法も根本から見直しました。特に「息をした瞬間に音が決まる」という感覚を、より強く意識するようになりました。オーボエは発音の難しい楽器で、柔らかく発音することに対して、オーケストラで演奏する際はよりシビアに感じるようになり、そのことを強迫観念的に意識しすぎてしまい、いつからか立ち上がりよく吹くことからどんどん遠ざかっていました。息をしっかり吐くことでさまざまな発音が実現すること、アビュール氏からは特にその点を指摘され、最初の音の重要性を学びました。ただ、発音の方向性を変えることは、想像以上に難しい作業でした。
ドイツではコレペティの先生にも多くを学びました。アビュール氏のレッスンで消化しきれなかった部分を補ってくださることもあり、音楽を多角的に捉える機会になりました。アビュール氏やコレペティの先生には感謝の気持ちでいっぱいです。
知りたかったことを本当にたくさん与えていただいた1年間でしたが、身につけるには時間が足りず、たくさんの宿題を抱えて帰国したという感覚でもあります。
「アフィニス夏の音楽祭」の期間中のレッスンの様子。写真左が杉原氏、右がアビュール氏。
― 音楽との向き合い方に変化はありましたか。
日本ではオーケストラに所属し、リハーサルと本番を重ねる安定した日々を送っていました。一方、ドイツでは言語の壁や奏法の見直しによって思うように吹けなくなり、レッスンでもうまくいかない日々が続きました。時には10歳ほど年下の学生から「どうして由希子はここをこう吹くの」と率直な意見を受けることもあり、多くの挫折を経験しました。
あるとき、ドイツ語の授業で、写真を見て感じたことをディスカッションする課題がありました。周囲の学生が積極的に意見を述べる中、私にとってはただのつまらない写真にしか思えず、何も感じることができず、言葉が出てきませんでした。そのとき、レッスンで指摘されていた「発想の乏しさ」が意味することが、初めて自分の中でつながり、それが自分自身と向き合う大きなきっかけとなりました。
秋に渡独してすぐ寒くなり、心も折れかかっていたある日、学校近くの公園で一人ベンチに座り、枯れた葉っぱが落ちるのを見て、自然と涙があふれました。でもその瞬間、心が「雪解け」したように感じました。寒々しいとしか思えなかった景色が、ふと「きれいだ」と思えたのです。
「この国で戦わなければ」と思いすぎていたのかもしれません。自分を「ダメだ」と責めるのではなく、今はできなくても「いつかはできる」と考えようと、意識的に思考を変えるようになりました。
心を動かすことは、生きるうえでも大切ですが、音楽や芸術を生み出すうえではなおさら重要だと実感しました。当時の私は、どこかで音楽を「仕事」として捉えていた部分があったのだと思います。ドイツの奏者や演奏会に足を運ぶ人たちが、みんな音楽を純粋に楽しんでいる姿を見て、物事の見方が変わりました。演奏を聴くときも、プレイヤーとしてではなく一人の観客として聴く。それだけで、音楽の見える景色が大きく変わりました。
留学中に唯一のツーショットと共有していただいた、アビュール氏と杉原氏のお写真。
地域に響く室内楽の力
― オーケストラでの活動に加えて、木管五重奏団「アミューズ・クインテット」としても活動されていますが、どのような取り組みをされていますか。
2012年から活動しています。クラシックに触れる機会の少ない地域での公演も行っており、初めてクラシックを聴く方が観客に多いこともあります。演奏が始まったばかりの頃は、皆さんが緊張されている様子が伝わってくることもありますが、終演時には温かい拍手をいただいたり、ロビーで「楽しかったです」と直接感想を伝えていただけたりすることもあり、とても嬉しく感じています。今後は定期演奏会も増やしていきたいと思っています。
― 室内楽ならではの面白さはどのように感じていますか。
決定的に違うのは、室内楽には指揮者がいないという点です。自由度が高く、それぞれの個性を発揮しやすい一方で、一人ひとりの役割はより大きくなります。単純に演奏する分量も多くなりますし、その分、全員がより主体的に音楽を作っていく必要があります。オーケストラとは異なり、室内楽にしかできない表現があると感じており、これからも積極的に取り組んでいきたいと思っています。
飛び、混ざり、応えてくれる楽器
― 〈ビュッフェ・クランポン〉との出会いについて教えてください。
中学生のときに北島章氏に教えていただいており、その際に北島氏から譲っていただいた〈ビュッフェ・クランポン〉の “Prestige(プレスティージュ)”のグレナディラを使っていました。その後、楽器を替えた時期もありましたが、東京藝術大学の大学院在学中に “プレスティージュ” のグリーンラインを使い始め、その楽器で日フィルに入団しました。
その後も何度か楽器を変えましたが、留学後に帰国してからも自分の楽器を定めきれずに悩んでいました。そんなときに和久井仁氏と室内楽をご一緒する機会があり、ちょうど “Virtuose(ヴィルトーズ)” が出始めた頃と重なりました。和久井氏に勧められて吹いてみたところ、吹きやすさと音色が気に入り、“ヴィルトーズ”に替えました。2018年から使い続けており、今は2本目を使用しています。
オーケストラの1st として吹くときは、音をしっかり飛ばさなければなりません。しかし同時に、周囲に溶け込む柔軟さも求められます。“ヴィルトーズ” は、飛ばしたいときにはしっかりと飛び、混ざりたいときには自然に溶け込みます。吹けば応えてくれる感覚があり、安心して楽器を信頼することができます。楽器のことを考えすぎることなく、自分の音楽に集中できる。それが最大の魅力だと思います。
― 楽器を選ぶ際は何を大事にされてますか。
まず大切なのは、響きが自分にしっくりくるかどうかです。吹奏感もとても重要ですね。軽すぎても重すぎても良くなくて、自分のキャパシティの中で無理なく対応できる楽器でないと、長く吹き続けることは難しいと思います。
音程はもちろん大事ですが、音程だけを求めすぎるのではなく、楽器全体のバランスを見ることが大切だと感じています。
― リードについて、特に大切にされていることはありますか。
息がしっかり入って、反応の良いリードが好きです。倍音のバランスが整ったリードを作るよう心がけています。できるときは毎日2、3本作るなど、こまめに取り組むようにしています。リードづくりをさぼると、少しあとになってツケが回ってきますね。
奏者という道を歩む杉原氏。その根底には「人の力になりたい」という想いがあり、もし奏者以外の別の道を選んでいたなら、看護師や医師を志していたかもしれないという。
― 今、演奏活動をされる中で、原動力になっていることは何ですか。
根底にはいつも「人の力になりたい」という思いがあります。一方で、実際に演奏会の舞台に立つと、アスリートのような感覚になり、自分の限界を超えたい、より良い演奏をしたいという気持ちが強くなることもあります。
そんな中、通っている整体師さんとの何気ない会話で「杉原さんは、演奏を通して人の心を癒している」と言っていただいたことがありました。その言葉をきっかけに、改めて「人のために演奏したい」という思いを強くしました。
やはり、演奏を聴いてくださる方がいてこそ、演奏することができます。観客の皆さまの笑顔や演奏後の拍手、ロビーで直接伺うご感想は、本当に嬉しく、大きな励みになっています。
チェンバーオーケストラという未来図
― 今後取り組みたいことはありますか。
チェンバーオーケストラを立ち上げたいという夢があります。マーラーの室内編成作品にも挑戦してみたいですね。信頼できる音楽家とともに音楽を共有できる場を作れたらと思っています。
大学生のときに、純粋に音楽に没頭した経験がありました。そのときのような音楽を、お客様とも共有できたらと考えています。目標は2027年で、現在準備を進めています。
― 200周年を迎えた〈ビュッフェ・クランポン〉に、メッセージがあればいただけますか。
200周年というのは、本当に歴史の深さを感じますし、あらためてすごいことだなと思います。先日、来日された〈ビュッフェ・クランポン〉ダブルリード部門責任者のレミ・カロン氏にお会いさせていただきました。どのメーカーも誇りを持って楽器づくりをされていると思いますが、カロン氏とお話しする中で、これまで以上に信頼する気持ちが自然と強くなりました。
使用している木材や設計についても、しっかりとしたポリシーを持って楽器を作っていらっしゃるのだと感じました。これからも、そうして丁寧に作られた楽器を、私たちは楽しみに待っています、という気持ちです。
ありがとうございました。