伊藤寛隆氏 インタビュー|日本フィルハーモニー交響楽団 首席奏者
中学校の吹奏楽部でクラリネットと出会って以来、「音」への探究を絶やすことなく歩んできた伊藤寛隆氏。
日本フィルハーモニー交響楽団の首席奏者として日々の舞台に立ち、現在は楽団長として組織全体を導いています。ソロ、室内楽、アウトリーチ、そして後進の育成―そのすべての根底にあるのは「最初の一音」に宿る真摯な哲学。音楽家として、そしてクラリネットの専門家としての矜持を語ります。
最初の一音から始まる哲学 ― プロフェッショナルの矜持
原点と志:吹奏楽からプロへの道
クラリネットを始めたきっかけと、最初の印象を教えてください。
クラリネットを始めたのは中学校の吹奏楽部に入ったのがきっかけです。入学式での吹奏楽部の演奏がとても格好良く、自分もあの中で演奏したいと思いました。当初はフルートやトランペットを希望していましたが、配属の結果クラリネットになりました。金管楽器のような派手さもなく見た目も地味で、何より女子ばかりの中で男子が一人という状況に、正直最初は気が進みませんでした。
ところが、近所の楽器愛好家の方にクラリネットの先生をご紹介いただいたことが転機になりました。その先生の勧めでフランス製の楽器を買ってもらい、自分の楽器を持つことで自然と大切に扱うようになり、練習も楽しくなって自宅でも毎日吹くようになりました。
どのようなことがきっかけで、プロの道を志すようになりましたか。
中学1年の文化祭でソロに抜擢されたことが大きかったです。身体が小さく目立ったのか、顧問の先生が「この子にソロを吹かせよう」とおっしゃって、その経験が嬉しくて「クラリネットのプロになろう」と思いました(笑)。
中学2年で〈ビュッフェ・クランポン〉の“RC”を手にし、ジュニア・オーケストラに入りました。吹奏楽部を続けながら東京のジュニアオケにも通う、まさにクラリネット漬けの日々でした。中学3年になる頃にはA管のクラリネットも手にしていました。ジュニアオケでは大学生の先輩もいて大いに刺激を受け、オーケストラで「どう演奏するか」「どんな音を出すか」という音楽の美学を学びました。この感覚は今の自分の基盤になっていると思います。
高校3年では吹奏楽コンクールで学生指揮者を務め、音大進学後は試験やコンクール課題曲に向き合いながら練習に励みました。日本フィルハーモニー入団後、9年ほど吹奏楽の指導や指揮にも関わり、オーケストラでの経験が吹奏楽をまとめる際の大きなヒントになりました。
Photo © 山口敦
挑戦と視座:首席就任から楽団長まで
日本フィルハーモニー入団、そして首席就任時のプレッシャーは。
入団して最初のステージが、いきなり《ラプソディ・イン・ブルー》でした。中学時代から好きで練習もしていたので「できます!」と即答しましたが、本番は人生で一番緊張しました。演奏を終えて袖に引っ込んだ瞬間、膝から崩れ落ちるほどでした。
その後、入団から1年で首席奏者に就任しました。とにかく勉強と練習を重ねるしかなく、プレッシャーを感じる余裕もないほど必死でしたね。現実の厳しさを知りながら、演奏面だけでなく、音楽家としての心構えや立ち居振る舞いなど、社会人としての在り方も学び、成長していったと思います。
今年の夏から楽団長も務めておられます。変化はありますか。
大変名誉なことで、責任と大きなやりがいを感じています。私は「責任感とは関心の表れ」だと考えています。楽団長という立場では、楽団全体に対して責務を負い、会議進行や承認、自主公演でのステージ挨拶、関係団体との調整などを担当します。そのため、常に全体を正しく把握し、適切に配慮することが求められます。
演奏の現場では、パート同士がまるで蜘蛛の糸で結ばれているように関わり合っています。そうした繊細な関係性を意識するようになったことが、楽団長としての仕事にもつながっています。演奏以外の面でも、オーケストラの運営や人間関係をより広い視野で考え、支えるようになりました。
Photo © 山口敦
専門家の核:ソロ・室内楽・アウトリーチの意義
多方面の活動の意義や楽しさについて、どのようにお考えですか。
クラリネットの「音」に関しては常にプロフェッショナルでありたいと思っています。知識も技術も専門家として徹底的に突き詰めるため、ソロ活動は欠かせません。あまり知られていない作品や貴重なレパートリーを取り上げてリサイタルを行うこともありますが、それは専門家として重要なことで、私自身のポリシーでもあります。
室内楽に惹かれるのは、弦楽器やピアノの演奏があまりにも素晴らしいからです。どんなクラリネットの楽譜を見ても「もしヴァイオリンならどう弾くか」と考えます。そのヒントを最も直接的に得られるのが室内楽であり、その経験が自分の演奏に大きく影響しています。
アウトリーチは「専門家として音楽で誰かに手を差し伸べ、関心を向けさせる」営みだと感じます。音楽にあまり興味のない子どもやクラリネットを知らない人に、どう興味を持ってもらうか―それが教育者の役割だと考えています。また、生演奏に触れる機会をつくることも重要です。以前は「どれだけ大きなホールでたくさんの人に音を届けるか」に重心がありましたが、今は小規模で距離の近い空間での演奏を好みます。マイクを通す音は本質とは少し違うと感じています。
創造と響き ― 初演・楽譜観から音作りの哲学へ
現代音楽や委嘱作品の初演も数多くされていますね。学生に奏法を伝えることはありますか。
私にとって価値があるのは「それが後に残る」ことです。「この人が依頼し、この人が初演した」という事実が作品として記録に残る―その役割に大きな意味があると思っています。初演では作曲家の直筆譜をもとにしっかりコンセンサスを取り、何より楽譜を尊重します。楽譜が生まれるまでのストーリーに自分が関われるのは幸せです。クラシック音楽は再演の積み重ねによって成り立っていますから。
作曲家と直接やり取りしながら、その意図を読み取り、作品を形にしていく―そうした体験を学生たちに伝えることも重要です。しかし、それには限界もあります。最終的には、演奏者自身が楽譜と真摯に向き合い、そこから何を感じ取り、どう表現するかを自分で掘り下げていかなくてはなりません。
奏法の継承については、学生にまず「楽譜を読む力」を身につけてもらいたいと考えています。クラシック音楽で最も重要なのは楽譜であり、 作曲家の個性や癖、意図を記譜から読み取る力が重要です。私自身もオーケストラで演奏する際は、指揮者と同じようにスコア全体を読んで全体の構造を理解し、自分のパートの意味を明確にしてから臨みます。これは専門家としての意識と誇りに関わる部分です。
日々の練習や音作りで重視している基盤を教えてください。
最も大切にしているのは「音色」です。理想の音のイメージを常に持ち、その実現を考えながら吹きます。楽器をケースから取り出し、リードを湿らせてセットして、最初に音を出す―その瞬間をとても大切にしています。多くの人はそのとき、無造作にバーッと吹いたり、パラパラと音階を吹いたりしますが、最初の一音こそがすべての始まりです。
それは、プロの料理人が料理の最後に「ひとなめ」で味を確かめる瞬間に似ています。食べるためではなく、味の完成度を確認するための一瞬。そこにすべての積み重ねが凝縮されています。音を出した瞬間に、その人が音楽や楽器にどのような価値観で向き合っているかがすべて表れます。
また、音を出したあとにはリード選びをしますが、そのときに重要なのは「音色のイメージ」です。一度選んだら、それが厚いのか薄いのか、重いのか軽いのか―そうした感触がまず先に来ます。味覚でいえば、「甘い」「辛い」「固い」といった違いがあるのと同じです。しかし、最終的には「おいしいかどうか」です。そして、その一瞬で「おいしい」と判断できるのがプロフェッショナルです。リードの種類は多様ですが、ある意味では「何でも良い」とも言えます。
若い学生への提言は。
もっと「生の音」を聴いてほしいと思います。レコードはアナログで、YouTubeやCDのようにデジタル信号に変換されていないため、鼓膜で聴いたときにより自然に響きます。私の学生時代、サクソフォーン専攻の先輩が、マルセル・ミュールが活躍していた当時の音をより忠実に聴くために蓄音機を手に入れた例もありました。極端な例かもしれませんが、今の時代だからこそ「音そのものへの探究心」に価値があると感じます。
音と伝統 ― 〈ビュッフェ・クランポン〉とクラリネットの未来
クラリネットの本質的な魅力を一言で。
「音色のすばらしさ」、そして「自然のものを使った人間の技術の粋」です。息だけでなく指のアクションによって音色やニュアンスが変化します。ヴァイオリンに最も近い管楽器なのではないかと思います。
現在の特注モデルや、市販モデルにも通じる〈ビュッフェ・クランポン〉の魅力は。
〈ビュッフェ・クランポン〉の最大の魅力はやはり「音」です。“R13”系と“RC”系で言えば、私は最初に“RC”を手にした影響もあって“RC”系統の音が好きです。ロベール・カレ設計による“RC”の音色こそ、私にとって〈ビュッフェ・クランポン〉の音の理想です。もっとも、学生を指導するときはどちらを選ぶかは本人の好みに任せています。
現在使用している柘植製の“Divine”(特注品)は本当に素晴らしい楽器です。製造技術も卓越しており、軽量で非常に硬質な木材が美しく柔らかく響きます。簡単に吹ける楽器ではありませんが、ストラディヴァリウスと同じで鳴らすには耳・技術・経験が不可欠です。
私の考えとして、楽器が「響く」=「共鳴する」ことは何より重要です。柘植製の“Divine”は共鳴と振動が一体となり、並行して使用している“Elite”(生産完了品)は管体が薄く非常によく振動します。少し大胆な言い方ですが、クラリネットが最も進化した形が“Elite”だと思っています。製造再開を望むほどです。〈ビュッフェ・クランポン〉が1989年に“Elite”を世に送り出したことは驚くべきことで、他社では真似できない技術が〈ビュッフェ・クランポン〉にはあります。
「楽器選びについてよく相談を受けます。試奏では“音を出した瞬間”を大切にしています。ケーキの一口目のように、その瞬間に楽器のすべてが現れるからです。吹き比べのあと、皆さんが幸せそうな表情になるのを見るのが何より嬉しいですね」と語る。
“RC”“Festival”“Elite”“Divine”と、時代ごとのモデルを吹き重ねてきた経験が、現在の音の理想を形づくっている。
マウスピースとリードについての考えをお聞かせください。
マウスピースやリードの組み合わせでは、まず「オーソドックスなもの」「長く愛されてきた定番」を使うことが大切です。〈ビュッフェ・クランポン〉の楽器は正しい奏法で吹けば、標準的なマウスピースでも正確な音程が得られます。音がうまく出ないうちに感触だけで選ぶと、方向を誤りがちです。「もっとこういう音が出したい」と感じたときに初めて、方向性を確認して試すべきだと思います。
最近はティップ・オープニングが広いモデルが人気ですが、私はやはりオーソドックスなタイプを推奨します。基本に立ち返ることこそが、音作りの最良の出発点です。
長年のユーザーとして、ブランドの魅力と200周年への想いを。
200年にわたる揺るぎない伝統と歴史には、奏者からの深い信頼と魅力が表れています。〈ビュッフェ・クランポン〉の楽器は長い年月で培われた経験と感性の結晶です。この伝統を築き上げてきた職人の感覚と手仕事 ― それこそがブランドの魂であり、他には代えがたい価値です。これからもその精神を大切に守り続けてほしいと願っています。
ありがとうございました。