境界を越えるトランペット奏者、イブラヒム・マーロフ
〈アントワンヌ・クルトワ〉のトランペット新製品の開発・設計を手がけた金管楽器製作者、アドリアン・ジャミネ氏が、フランスの著名なトランペット奏者や金管楽器奏者を招いてインタビューするポッドキャスト番組『キュイーヴル・ア・ラ・フランセーズ』(=フランスの金管楽器)。
この番組に、現代トランペット界を代表する音楽家の一人、イブラヒム・マーロフ氏が登場しました。国境やジャンルを越え、既存の枠組みを鮮やかに塗り替えてきた彼の音楽は、フランス流金管の歴史に新たなページを刻んでいます。
本インタビューでは、父ナシム・マーロフ氏のもとでの学び、モーリス・アンドレ氏へと連なる4分音トランペットの系譜、パリ地方音楽院とパリ国立高等音楽院での経験、そして独自の道を切り拓いてきたキャリアについて語られます。さらに後半では、アドリアン・ジャミネ氏との共同開発によって生まれた“T.O.M.A.”について、その背景と意味が明かされます。
イブラヒム・マーロフ氏の言葉から、音楽、継承、革新、そしてフランス流金管の未来をたどる特別インタビューを、アドリアン・ジャミネ氏のご厚意により抜粋・編集・翻訳し、本サイトにて公開いたします。
音楽との出会い、父と母から受けた二つの教育
アドリアン・ジャミネ氏(以下省略):今日は、特別なゲストをお迎えしています。イブラヒム・マーロフさんです。
あなたは、もう紹介するまでもない方ですが、このポッドキャストでは、ゲストご自身に自己紹介していただいています。もしご自身を紹介するとしたら、どのように話されますか。
イブラヒム・マーロフ氏(以下省略):僕はトランペット奏者です。ただ、トランペット奏者であるだけではなく、広い意味での音楽家でもあります。作曲家であり、編曲家であり、プロデューサーでもある。実際、僕の仕事のかなり大きな部分はそこだと思っています。
それから、17歳の頃から教えていますし、音楽以外にもさまざまな活動をしています。
ごく幼い頃からの音楽的な歩みについて、お話しいただけますか。
すべては両親から始まりました。両親は二人とも音楽家で、父はトランペット奏者、母はピアニストです。
父は、僕の歩みにおいて非常に重要な案内役でした。クラシック、現代音楽、バロックなど、トランペットの奏法を教えてくれたのは父です。また、4本ピストンを備えた4分音トランペットの演奏を教えてくれたのも父でした。そこには、アラブ音楽や中東音楽の文化がすべて含まれていました。さらに、最初はクラシックのトランペット奏者としてこの仕事をしていくために、そして若い頃にパリ国立高等音楽院を受験するために、最も良い助言をくれたのも父でした。
一方で母は、僕がピアノを少し弾いたり、ピアノで遊んだりしているのを見て、自由にさせてくれました。しかも、僕が素晴らしいと思うやり方で。つまり、「どう弾くべきか」を教えに来なかったんです。
父から受けたトランペットの教育は非常に厳密で、厳しいものでしたが、それと同時に、音楽で本当に自由に遊ぶ場所があった。ピアノでは、心から楽しむことができました。だから、僕には二つの教育を受けたのだと思います。
その後、パリ国立高等音楽院を経て、少し独特な道を歩むことになりました。当時、まずコンクールにかなり出ていました。そして、コンクールを終え、卒業試験を受けました。ディプロムは得たものの、プルミエ・プリには届かなかった。そのとき、トランペットに対して一種の嫌悪感のようなものが生まれて、本当にやめたいと思いました。競争の精神のようなものが、自分にはまったく合わなかったんです。にもかかわらず、僕はその世界に非常に深く関わっていました。もちろん野心もありましたし、コンクールで賞をとりたいという気持ちも強かった。でも同時に、それは自分が人生で目指しているものではまったくありませんでした。
そこから僕は、それまで教え込まれてきた作法や暗黙のルールから離れ、まったく別の場所へ向かっていきました。そしてそのとき、ようやく「音楽を演奏する」とはどういうことなのかを理解し始めたんです。そこから、芸術と音楽が与えてくれるあらゆる扉、あらゆる自由が、僕の中に入ってくるようになりました。
アマドゥ&マリアム、ラサ・デ・セラ、スティング、ヴァンサン・ドレルム、トマ・フェルセン、アルチュール・アッシュ、マチュー・シェディッド、ジャンヌ・シェラル……本当にたくさんの人たちとの出会いがありました。彼らは、もともとの僕の世界とはまったく関係のない人たちでした。そこで、目も耳も、すべてが開いたんです
父ナシム・マーロフの歩み
少し話を戻します。まず、お父様がどのような方だったのか、どのような歩みをされたのかを話していただけますか。お父様の人生は、本当にすごいものですよね。
父だけで10時間のポッドキャストが必要です。どう要約したらいいのかわかりません。かなり途方もない人生ですから。
でも、父の人生の中で、僕が本当に魅了されている時期があります。
父は、レバノンの山間部で、フランス式のファンファーレを通じてトランペットに出会いました。22歳のときです。それまで彼には未来がありませんでした。農民で、学校にも行っておらず、フランス語も一言も話せず、お金も一銭もなかった。本当に何もなかった。手に持っていたのは、そのトランペットだけでした。彼はベイルートへ行き、ベイルート音楽院で学びます。当時レバノンには、トランペットを吹ける人が一人いて、その人が父にレッスンをしてくれました。
その頃、父はドイツ人の女性に恋をします。フルートを学んでいたドイツ人女性です。戦争前のレバノンは楽園のような場所でした。本当に美しい場所だったんです。写真や絵葉書を見ると、信じられないほど素晴らしい。だから海外からも多くの人がそこで学びに来ていました。二人は恋に落ちますが、数か月後、彼女は父のもとを去ります。「私は結婚しなければならない。未来の夫が待っている」と言ったんです。そこから、父は衝動的に船に乗り、フランスへやって来ます。
「彼女はヨーロッパのこと、フランス楽派のこと、モーリス・アンドレ氏のことをずっと話していた。だから、モーリス・アンドレ氏のもとで学びに行こう」と思ったんです。
父がフランスに到着したとき、フランス語は一言も話せず、お金もなく、知り合いもいませんでした。学校にも行っていなかったので、アラビア語の読み書きも本当にきちんとはできなかった。そしてトランペットも、まだきちんと吹けたわけではありません。そこから7年後、彼はパリ国立高等音楽院のモーリス・アンドレ氏のクラスに入り、ディプロマを得るのです。
この時期の物語は、僕にとって本当に信じがたいものです。そして、僕はその時期のことをよく知っています。僕が幼い頃から、父がよく話してくれたからです。父は、自分自身の決意のようなものを、とても早い段階で、僕の手と頭に託してくれたのだと思います。
モーリス・アンドレとの精神的なつながり
モーリス・アンドレ氏との関係についても話していただけますか。
お父様にとっての関係、そしてあなた自身にとっての関係。二つの道がどのように交わったのか。
家にも父の教室にもモーリス・アンドレ氏の写真がありました。僕はその写真をあちこちで見ていたんです。そして、父がその人に似ていると思っていました。実はかなり長い間、彼が自分の祖父だと思って育ちました。
モーリス・アンドレ氏は父のことをとても気に入っていました。父はモーリス・アンドレ氏の生徒としては、かなり年上でした。そして二人には共通点もありました。二人とも鉱山で働いていたのです。父は露天掘りの鉱山でたくさん働いていました。モーリスも、フランスの炭鉱で1、2年ほど鉱夫として働いていました。そうしたものを共有していたんです。
モーリス・アンドレ氏はとても人間的で、非常に開かれた人でした。フランス語を話せず、トランペットのことも何も知らない小さなアラブ人でも、しっかり努力すればパリ国立高等音楽院に入る資格があるかもしれない、と本気で考える人でした。世界の文化にも非常に開かれた精神を持っていました。だから、彼は父にとって精神的な父のような存在になりました。父はちょうど同じ頃に自分の父を亡くしていたので、モーリス・アンドレ氏は本当に彼の精神的な父になったのです。そうなると、当然、僕にとっても精神的な祖父になります。モーリス・アンドレ氏が僕の人生で占めた位置は、とてつもなく大きなものでした。
さらに、彼は父に仕事まで見つけてくれました。当時、エタンプの音楽院でジャン=ポール・ルロワ氏のポストが空くことになり、ルロワ氏はオルレアンで働くためにそこを離れる予定でした。モーリス・アンドレ氏は父に電話して、「もし仕事が必要なら、そこが空くから、エタンプに行けるかもしれない」と言ってくれたのです。父はその後、人生のほとんどをその音楽院で働きました。僕もエタンプで育ちました。
本当に、モーリス・アンドレ氏は僕たちの物語において、非常に重要な人でした。
YouTubeチャンネル:Nassim Maalouf
動画:Vivaldi – Concerto en do majeur – Maurice André + Nassim Maalouf
エタンプのノートル=ダム・デュ・フォール教会で行われたモーリス・アンドレ氏60歳記念コンサートより。モーリス・アンドレ氏とナシム・マーロフ氏のデュオ。ヴィヴァルディ《2本のトランペットのための協奏曲 ハ長調》第1楽章を演奏。指揮はロドルフ・ジベール氏、共演はエタンプ室内管弦楽団。
パリ地方音楽院、ジェラール・ブーランジェとの出会い
では、パリ地方音楽院での時期についても話していただけますか。
ジェラール・ブーランジェ氏と出会っていますよね。彼はこのポッドキャストにも登場してくれました。
その時期から得た大きな教えは何でしたか。
それはとても重要な時期でした。僕は17歳でジェラール・ブーランジェ氏に出会いました。当時、パリ地方音楽院にはトランペットの主要な先生が二人いました。ジェラール・ブーランジェ氏とギイ・トゥーヴロン氏です。
まず父が、「最初に君のプログラムをジェラール・ブーランジェとギイ・トゥーヴロンに聴いてもらおう。そして、二人のうちどちらが君に合うかを見よう」と言いました。ギイ・トゥーヴロン氏とは、あまりしっくりきませんでした。詳しくは言いませんが、僕にはあまり合わなかった。一方でジェラール・ブーランジェ氏には、すぐに本物の真剣な教師、真の案内役を見ました。物事を伝える姿勢がとても厳密で、ある意味、理想的な先生でした。人が夢見るような、本当の導き手です。すぐに父に「彼のクラスに入りたい」と言いました。そして試験を受け、合格しました。
ジェラール・ブーランジェ氏との2年間は、本当に大きな転換の瞬間でした。それまで僕は家で父と吹いていて、父は「素晴らしい、よくやった、すごい」と言ってくれていました。そこから、プロの視点で「いや、そこは全然だめだ。それはそんなふうに練習してはいけない。これからは変ロ長調をやらなければいけない。ヴィズッティをやらなければいけない。クラークをやらなければいけない。そうしないなら、この仕事を夢見る必要もない」と言ってくれる人に出会ったのです。この2年、3年の間、本物の導き手がいてくれました。
パリ国立高等音楽院での葛藤
そして当然、その後はパリ国立高等音楽院ですね。パリ国立高等音楽院に入った時、どのような心境でしたか。
パリ国立高等音楽院に入る前は、迷いはまったくありませんでした。それが第一の計画でした。つまり、パリ地方音楽院に行き、ジェラール・ブーランジェ氏にパリ国立高等音楽院入学のために準備してもらう。そういう流れでした。
パリ国立高等音楽院に入った後は、アントワーヌ・キュレ氏のクラスに入りました。彼は本当に素晴らしい人物で、人間として非常に尊敬できる人です。僕は彼の人間性が好きでした。ただ、正直に言うと、彼の教育法については、それほど好きではありませんでした。彼は全員に同じ方向を示すタイプの先生でした。でも実際には、人にはそれぞれ身体的な違いがあり、音の好み、響かせ方、楽器の選択、将来の方向性も違います。僕にとって、その方法は自分の音や、自分の演奏の仕方とは合いませんでした。もちろん、彼の教育法が非常にうまく機能した生徒もいました。けれど僕の場合は、求められた楽器やマウスピース、練習方法が、自分の向かいたい方向とは違っていました。
1年目は、まだ何とか大丈夫でした。良い生徒であろうとしていた。
2年目には、少し疑問を持ち始めました。「自分が向かいたいのはそこではありません」と。
3年目には、もう限界でした。僕はアントワーヌ・キュレ氏に言いました。
「僕は出ていかなければなりません。プルミエ・プリを受ける(=卒業試験を受ける)か、辞めるかのどちらかです」と。
結果として、あまり良い形では終わりませんでした。ただし、そこは分けて考えています。僕は本当に、アントワーヌ・キュレ氏は素晴らしい人で、並外れた人格を持ち、人間的にもとても温かい人だと思っています。ただ、彼自身も非常に厳格な教育の中で学んできたのだと思います。物事の見方に、あまり柔軟性がなかった。それは少し残念だと思いますが、そういうものだったのです。
YouTubeチャンネル:sabinetrpt 動画:Ibrahim Maalouf Hummel & Bach
2003年10月に撮影された、マーロフ氏がクラシック音楽を演奏していた時代の動画。
「フランス流の金管」とは何か
このポッドキャストは『Cuivres à la Française』という名前です。あなたにとって、それは何を意味しますか。
大げさに言いたいわけではありませんが、実際のところ、「フランス流の金管」について語れる人がいるとしたら、それは僕の父です。
父は、フランス委任統治の遺産が残る国でトランペットを学びました。レバノンの村々には、フランス式のファンファーレがいたるところにありました。忘れてはいけないのは、レバノンはアラブ文化の国ですが、同時に非常に重要なフランス語圏文化があり、それは小さな村々にまで広がっていたということです。
だから、「フランス流の金管」は、音楽の世界において存在し得る最も洗練された芸術のようなものを表していると思います。少しラグジュアリーやファッションの世界に似ています。非常にフランス的な専門性があり、世界中で認められている独特のフランス的な奏法がある。アメリカ人、日本人、中国人でさえ羨むものです。ヨーロッパの中でも同じです。とりわけ金管には、本当にそれがあります。フランスには、非常に精密で、尊敬され、仕事の仕方が繊細な楽派があるのです。
ただ、フランス人は常に問いを立て、疑い、すべてを見直します。アメリカ人はどう吹くのか、スペイン人はどう吹くのか、北欧の人たち、ドイツ人、オーストリア人はどう吹くのかを見に行きたくなる。だから、フランス人は常に自信を持っているわけではありません。でも実際には、フランスの外に出て、世界のほかの場所でこのフランスの金管芸術がどれほど尊敬されているかを見ると、少し自信を取り戻せる気がします。
逆流を進むキャリア
あなたの歩みに戻りましょう。音楽院を終え、そこで多くのアーティストに出会います。あなたは自分のプロジェクトをどのように築いていったのでしょうか。
出発点にあるのは、音楽への情熱です。僕を魅了し、情熱をかき立てるのは、音楽が可能にする「つながり」です。つまり、もともとは知り合うはずもなかった人、共にいるはずもなかった人たちを、音楽がどのようにつなげるのか。そこに僕は強く惹かれます。
僕がフランスに来たとき、フランス語は一言も話せませんでした。両親は、アラビア語を話す人がほとんどいない学校に僕を入れました。僕は先生たちが何を言っているのかわからない子どもでした。友だちを作り、人と接点を持つまでに2、3年かかりました。それは、その後の人生の選択にとって、非常に大きなことだったと思います。成長するにつれて、僕は常に人とつながりたいと思ってきました。人が僕のことを理解し、僕の言っていることを理解してくれること。そして僕も、人が言っていることを理解すること。そのために、僕は芸術と音楽を使っているのだと思います。
父は僕が若い頃、いつもこう言っていました。
「フランスで成功したいなら、ここで生まれた人たちの2倍働かなければならない」と。
ある意味で、父は正しかったと思います。自分を証明しなければならなかった。だから僕は、2倍ではなく、12倍働きました。
クラシックのトランペット奏者として本格的にキャリアを築きたいと思ったとき、フェスティバルからはほとんど招かれませんでした。にもかかわらず、コンクールでは結果を出していたし、ソリストとしての力があることも示していた。自分では証明したつもりでした。
モーリス・アンドレ氏と電話で話したことをよく覚えています。モーリス・アンドレ国際コンクールの2、3年後だったと思います。
僕は彼に言いました。
「モーリス、わからないんです。あなたのコンクールで上位に入りました。出場したコンクールではほとんど優勝しましたし、名のあるコンクールでほぼすべて本選まで進みました。それなのに、大きなフェスティバルからはほとんど、というか、まったく呼ばれません」
そのとき彼が言った言葉をよく覚えています。
「イブラヒム、残念ながら、フランスのフェスティバルが、“イブラヒム”という名前の男からハイドンの演奏法を教わることを普通だと思う日は、まだ明日には来ないよ」
それには衝撃を受けました。はっとしました。
そこから、僕は別の道を探すようになりました。オーケストラの試験も受けましたが、うまくいきませんでした。だから僕は、常にシステムと闘わなければなりませんでした。自分は逆流の中にいました。ジャズでも、ほかの分野でも、やはり少し逆流にいました。
あるアルバムの録音を持って、すべてのレコード会社を回ったこともあります。どの会社もこう言いました。
「君のやっていることは素晴らしい。でも、うち向きではない」
レコード会社は見つかりませんでした。だから、自分のレーベルを作らなければならなかったのです。
その道を進むうえで、僕を大いに助けてくれた人たちはいました。たとえば、ジャン=ルイ・ペリエ氏です。彼は20年来の僕のマネージャーです。彼と一緒に自分のレーベルを作りました。そもそもレーベルを作るように勧めてくれたのも彼です。アレハンドラ・ノランブエナ=スキラ、モーリス・アンドレ、そしてマチュー・シェディッド、スティングをはじめとする多くのアーティストたちも、僕を励ましてくれました。ただ、誰かの道を真似したわけではありません。僕たちは今も、存在しなかった道を掘り進めている途中なのだと思います。
YouTubeチャンネル:Ibrahim Maalouf Official
動画:Ibrahim Maalouf – Diaspora
2007年発表のファースト・アルバム『DIASPORAS』より。既存のジャンルやレコード会社の枠に収まらず、自らの道を切り拓き始めたマーロフ氏の原点を感じさせる一曲です。
アドリアン・ジャミネとの出会い、そして“T.O.M.A.”へ
僕にとっても、あなたとの出会いは本当に強いものでした。あなたは知らないかもしれませんが、僕の10代の頃の部屋には、あなたのポスターが貼ってあったんです。
うわ、それは僕の年齢を証明してしまうね。全然よくない。そこは編集で切ってください。ありがとう、さようなら。
いや、本当にそうなんです。僕は両親の家の地下で仕事を始めました。ブレティニー=シュル=オルジュで。僕たちには、そういうエソンヌ(パリの南に隣接する県)の血のようなものが流れているんですよね。
エソンヌの血ね。
そして一緒に仕事を始めました。前にも一度か二度言いましたが、このプロジェクトを始めたとき、僕は本当に心からあなたのためのトランペットを作ろうとしました。それは途方もないプロジェクトでした。自分の中で「イブラヒムにベルシー(フランス最大の屋内競技場アコー・アリーナ)でこのトランペットを吹いてもらわなければならない」と誓っていました。実際、あなたの2回目のベルシー公演が迫っていました。でも、時間は過ぎていく。もちろん、試作もあれば、フィードバックもたくさんある。そしてコンサートの日が近づいてきて、「ああ、間に合わないかもしれない」と感じていました。
でも僕は、もうほかの楽器を吹く自分が想像できません。
そしてすごいのは、コロナであなたのコンサートが延期になったことです。そのとき僕は、「これは、もう一段ギアを上げなければ」と思いました。1月にトランペットが完成して、コンサートは4月でした。
話しているだけで今でも鳥肌が立ちます。ベルシーの客席に座っていました。大きな赤い幕の前にあなたが現れる。後ろにはギャルド・レピュブリケーヌ管弦楽団がいて、あなたはギタリストのフランソワと二人で立っている。
僕は客席で一人、「ああ、彼はいま、自分のトランペットを吹いている」と思っていました。信じられない、と思いました。自分も少し舞台にいるような感覚でした。
だからこそ、これは人生からの贈り物だと言っているんです。僕たちの出会いもそうですし、ほかにもたくさんあります。もう僕には案内役はいません。でも、出会いがあります。たくさんの非常にポジティブな出会いです。今でも、ときどき本当に素晴らしい出会いがあります。何かの言葉が刺激になり、自信をくれる。僕は、ネガティブなものはいつも脇に置きます。「それは難しいよ」と言う人の話は聞きません。本当にフィルターをかけているんです。そうやって、僕たちはこの道を一緒に作っているのだと思います。
ベルシーという挑戦
今ベルシーの話が出たので、そこに話を戻します。今ではもう何度も実現していますが、2万人を収容できるアリーナで、トランペットのライブを開催するというのは、かつての常識ではあり得なかったことでした。最初のベルシーについて話していただけますか。
まず、それは一種のメッセージでした。長い間、「それは絶対にうまくいかない」「観客はそのタイプの音楽を理解しない」「歌手でない限り成功しない」と言われ続けました。「大手の一般ラジオでプレイリストに入らなければ、絶対にうまくいかない」とも言われました。
そういう言葉を聞き続けていると、心の中に一種の反発が育っていきます。
「なぜ? なぜ人はそんなことを言うのか。なぜ信じないのか。トランペットのような楽器が、ポピュラーアートの中に場所を持つことを、なぜ信じられないのか」と思うのです。
ポピュラーアートというのは、くだらないものを作るという意味ではありません。非常に良い音楽を作りながら、それを広い観客に向けたものにすることもできるはずです。
僕たちはすでに、フランス各地の大型コンサートホールや大きなフェスティバルで演奏していました。何万人もの観客の前で演奏する経験もありました。それなら、なぜアリーナでコンサートをするチャンスが与えられないのか。そう思ったんです。
2016年当時、ベルシー、つまりアコー・アリーナは、フランス最大級のコンサート会場でした。そこで僕は、「メッセージを発しなければならない」と思いました。トランペットが、そして楽器が、大衆に向けた芸術の領域で道を切り開くことができるのだと示さなければならない。そこに何も恥じる必要はないのだと。
チームに話すと、みんなが「イブラヒム、君は完全に狂っている」と言いました。でも僕は、「僕は信じている。実現可能だと思う」と言いました。
実際にチケットを発売すると、コンサートのかなり前に完売し、追加公演まで行うことになりました。インスト音楽で、しかも僕はトランペット奏者です。それを考えると、完全に信じがたいことでした。そのとき、誰も自分自身以上に自分を信じることはできない、という言葉が現実になったのだと思いました。
それ以来、ベルシーは何度も実現しました。人生の嵐があっても、観客はそこにいてくれる。そして今も僕を信頼し続けてくれています。それは本当に、心を動かされることです。
YouTubeチャンネル:Ibrahim Maalouf Official
動画タイトル:Ibrahim Maalouf – S3NS (Paris Accor Arena Concert Opening – 2022)
2022年、マーロフ氏とジャミネ氏の協業で生まれた“T.O.M.A.”が初めて演奏されたベルシーのコンサート。ジャミネ氏はこの日のことを思い出すと、今でも鳥肌が立つ、と語っていた。
“T.O.M.A.”プロジェクトと父の夢
僕には、あなた自身が、あるプロジェクトによって今まで以上に自分自身と一致したように感じています。そのプロジェクトに、僕も関わっています。“T.O.M.A.”のプロジェクトです。このプロジェクトについて話していただけますか。
もちろんです。コンサートでも話していることですが、ここでも話します。
父が僕に初めてトランペットを渡してくれたのは、僕が7歳半のときでした。初めてトランペットを手にしたとき、その楽器には4番目のピストンが付いていました。そのときの僕の反応は、父にこう言うことでした。
「パパ、僕はこのトランペットを吹きたくない。みんなが吹いている、普通のトランペットを吹きたい」
そのとき父が言ったことを覚えています。
「イブラヒム、好きにすればいい。でも数年後、世界中のトランペット奏者が私の発明したトランペットを吹くようになって、昔のトランペットを吹いているのは君だけになるよ」
僕はそれを信じました。
コンサートでも話していますが、本当に信じたんです。でも数年後、17枚、18枚、そして今では19枚のアルバムを経て、結局その楽器に本当に深く関心を持ち続けたのは、ほとんど自分だけだったと認めざるを得ませんでした。もちろん、好奇心を持ってくれた人は何人かいました。でも、父が望んだような大きな効果は生まれなかった。だから、僕の頭の中には、いつかその夢を実現しなければならないという思いがありました。
今、父は85歳です。彼がこの世を去る前に、自分の夢が本当に実現したのだと見てほしかった。
もう一つあります。
父は長い間、アメリカ、日本、中国、韓国などの企業から、自分が発明した楽器を製作したい、作らせてほしいと頼まれていました。僕は小さい頃、アメリカ人や日本人など、いろいろな人たちが家にやって来て、父にトランペットのスケッチや図面を見せてほしいと頼んでいたのを覚えています。彼らは写真を撮りに来ていました。でも父は断りました。それをフランスの製品として残したかったのです。彼は本当にそこにこだわっていました。
なぜなら、彼にその機会を与え、そのトランペットを与え、扉を開いてくれたのはフランスだったからです。モーリス・アンドレ、フランス、フランス楽派、フランス流の卓越性。父にとって、この発明は、そのフランス流の卓越性の領域にとどまるべきものだったのです。
だから僕は待っていました。アドリアン、君に出会うまで待っていたのです。
君と出会った日、君の手の中にそのフランス流の卓越性があると気づきました。そして、父の夢を実現する時が来たのだと思いました。そこから、この“T.O.M.A.”というトランペットを具体化していきました。
君とのコラボレーションでこのブランドを作れたことを、とても嬉しく思っています。なぜなら、このプロジェクトは、僕がやってきたすべての音楽、アルバム、そのすべてが向かうべき場所だったからです。これは、僕がずっとやってきたことの結実なのです。
僕はこのプロジェクトの当事者なので客観的ではありませんが、あなたはこのプロジェクトにおいて、今までになく自分自身と一致しているように感じます。
まったくその通りです。本当にそうです。だから、これはすべての年月の到達点だと言っているのです。
僕はすべてのインタビューで父のことを話し、彼の物語を語り、行く先々で四分音トランペットの仕組みを見せ、マスタークラスを行い、この発明がいかに素晴らしいものかを人々に伝えようとしてきました。人々はあまり気づいていませんが、このトランペットは、実は世界中のすべての音楽、すべての民族の音楽を演奏することを可能にする楽器です。
あらゆる音楽の中に四分音があります。四分音があまり存在しない音楽は一つだけです。存在はしますが多くはない。それが西洋ヨーロッパの音楽です。つまり、西洋クラシック音楽にはほとんどない。
でも、それ以外の場所にはあります。アフリカ音楽にも、インド音楽にも、日本の音楽にもあります。アジアの音楽、北方の音楽、ケルト音楽、ブルターニュの音楽にもあります。フラメンコにも、ブルースにも、ジャズにも、南米の音楽にもある。実際、四分音は至るところに存在しています。
さらに言えば、クラシック音楽の中でも、バロック音楽にはそうした音程がありました。しかし、音律を整え、音程を均質化していく過程で、私たちはそれを取り除いてしまったのです。
だから僕にとって、これは到達点です。もちろん父のプロジェクトです。
そして、自分がやってきたすべての仕事に、もう一度意味を与えることでもあります。
「見てください。僕がこれだけのことをしているのは、最終的にこの楽器に意味を持たせるためなのです」と。
そして、これから創られていく新しい音楽の領域において、あの魅力的な音程に再び場所を与えることなのです。
YouTubeチャンネル:Ibrahim Maalouf Official
動画タイトル:Ibrahim Maalouf – Trumpets of Michel-Ange – Session Studio
アルバム『TRUMPETS OF MICHEL-ANGE』より、2024年12月に公開されたスタジオ・セッション映像。イブラヒム・マーロフと4名の“ T.O.M.A.”トランペット奏者が、祝祭感あふれるサウンドで新世代のトランペット・プロジェクトの魅力を伝える。
次に聴いてみたい声
最後に、このポッドキャストで、今後どのような人の話を聴いてみたいですか。金管に関わる方でも、少し離れた職業の方でも構いません。
すでに予定されているかもしれませんが、君の周りにいるチームの人たちの話を聴いてみたいですね。君はすでに多くのインタビューをしています。でも、君と一緒に働いている人たちの声は、必ずしも表に出ているわけではありません。アトリエで会う人たちは、いつも笑顔で、とても温かく迎えてくれて、親切で、素晴らしい仕事をしています。彼らは、君がどのように仕事をしているのかについて、きっとたくさん語ることがあると思います。
はい、それは予定しています。でも、そのアイデアを後押ししてくださってありがとうございます。
イブラヒム、このポッドキャストに来てくださって、本当にありがとうございました。
こちらこそ。嬉しかったです。
そして、この素晴らしい冒険を一緒に歩んでくださっていることにも感謝します。
マイクの前であらためてお伝えしますが、あなたと日々一緒に仕事ができることは、僕にとって本当に夢のような時間です。
嬉しいです。僕も同じ気持ちです。
ありがとうございます。
このエピソードをお聴きくださり、ありがとうございました。
YouTubeチャンネル:Ibrahim Maalouf Official
動画タイトル:Ibrahim Maalouf – S3NS (Duo version – Official Music Video)
2020年9月、南仏ニームの古代闘技場で収録された“S3NS”デュオ版。
アドリアン・ジャミネ氏のPodcast番組:Cuivres à la Française