ニコラ・バルディルーが語る|本番の緊張と準備、そして演奏の自由
世界を舞台に活躍するクラリネット奏者、ニコラ・バルディルー氏。来日リサイタルツアーのさなか、本インタビューでは、演奏に伴う緊張や準備、その先にある自由について語っていただきました。舞台上の知覚や解釈の歴史をたどりながら、モーツァルト協奏曲へと視点を深めていきます。
本番の緊張は消せるのか ─ 準備と不確定性
バルディルー氏は今回、リサイタルツアーで来日されています。重要な演奏会の前、緊張や恐れのような感情は、今も存在しますか。
はい、あると思います。いずれにしても、舞台に立てば常に何らかのストレスや緊張はあります。少なくとも、聴衆を失望させたくないですし、自分自身を失望させたくもないからです。それに、年齢を重ねるほど、さまざまなことに気づくようにもなります。20歳の頃は、あまり自問せずに演奏していたこともありました。しかし年を重ね、さらに多く教えてきたことで、より多くのことを理解します。そうすると、難しさも意識するようになり、それが緊張を生むこともあります。
その緊張は、演奏の妨げになりますか。それとも助けになりますか。
どちらの効果もあり得ます。準備の質に大きく左右されます。もちろん、ストレスやアドレナリンがあると反応が速くなりますし、同時により多くのことを処理できます。それをうまくコントロールできれば、集中力が高まり、より効率的になります。一方で、頭の中に考えることが増えるので、ときに余計な、否定的な考えが入ってきて、邪魔をしたり、行き詰まったりします。ですから準備の段階で、できるだけそれを取り除き、演奏により集中できるようにする必要があります。
どの段階で、「準備が十分だ」と感じますか。
難しいですね。というのも、完全には予測できないことがあるからです。100%コントロールできないこともあります。舞台の上で、自分の身体と精神がどう反応するかは分かりません。
いずれにしても、舞台に立って演奏会をすることは、常に未知の中に飛び込むことで、何かしらコントロールできない要素があります。もちろん、経験を積めば、何かを準備するのに必要な時間を見積もれますし、習慣として仕事量を配分しようとします。
しかし私個人としては、ある程度自信を持つようにしているタイプだとしても、100%準備できたと思うことはありませんし、そもそもそれは不可能だと思っています。そして私は、それを望んでもいません。なぜなら、神秘やインスピレーション、未知のための小さな部分も残しておきたいからです。
ですから、その瞬間に向けて多く準備し、多く練習することは重要ですが、やり過ぎるのは必ずしも良くありません。
準備しすぎることは問題になり得ます。なぜなら、常に頭を新鮮に保つ必要があるからです。世界中の音楽家が、練習しすぎて、時間がありすぎると、新しい問題や行き詰まりが生じ、以前はうまくいっていたことが難しくなったり、うまくいかなくなったりすることに気づいています。
だから時間があるときほど、連続して練習し続けないほうがよいと思います。
経験を積む中で、私にとって本当に重要だったコンクールでは、たくさん練習して、2〜3週間やめて、そしてコンクールの10日前からまた練習を始める、というやり方を学びました。そうすることで精神の新鮮さを保ち、演奏や思考が行き詰まる状態や、頭の飽和を避けるためです。
「練習して、止める」。そういう休止が必要です。ただ、年月が経つほど、そもそも練習できる時間は少なくなります。今の私は「この演奏会は重要だから十分に練習できた」と言えることはほとんどありません。ですからこれは、特に学生で時間がたくさんある場合に起きやすい問題です。
パリ国立高等音楽・舞踊学校で学んだのち、フランス放送フィルハーモニー管弦楽団の首席クラリネット奏者として多数の演奏に参加。現在はリヨン国立高等音楽院教授として後進を育成するとともに、ソリストや室内楽奏者としても世界各地で演奏活動を行っている。
ホールが変わると“身体”が変わる ─ 空間への適応
演奏中、最も注意深く聴いているのは、ご自身の音ですか。それとも周囲の空間ですか。
まず、独奏かどうかで違います。聴き方は大きく変わります。私が最も重要だと思うのは空間です。というのも、同じ音でも、空間が違えば全く別のものになるからです。
自分の音色、ホールの音量(大きさ)、残響、そして遠達性(音の飛び)を得る能力。これらのバランスです。プロとして演奏するようになると、音響が違えば、必要なセッティングが変わることにすぐ気づきます。身体的な関与も変わります。本当に、身体、ニュアンス、すべてが変わります。
たとえば、昨日と同じリードは今日は使えない、と感じることもあります。350席程度のリサイタルホールから、より親密な空間に変われば、同じ条件では演奏できません。
だからこそ私は、「音そのもの」だけに意識を集めすぎないようにしています。私たちは音にとらわれすぎ、音に焦点を当てすぎます。音のことばかり考えると、結局、色彩や音楽そのものを犠牲にしてしまいます。
音楽的により多くのことをしようとすれば、当然、音は「まっすぐに」吹いたときほど均質で完璧ではなくなることがあります。
そういう意味で、音は最も重要な要素の一つではない、と私は思います。
深く集中しているとき、内面はとても静かですか。それとも非常に研ぎ澄まされ、敏感ですか。
舞台の上で完全に落ち着いている、というのは難しいと思います。舞台に立てば、観客の前にいますし、マイクやカメラの前にいることもあります。ですから、それが通常の状態であるはずがありません。それを通常の状態にするには薬が必要でしょうが、それは良くありません。
私は、たとえ非常に集中していたとしても、アドレナリンや緊張の話に戻りますが、すべてがより敏感になり、すべてがより速くなり、身体と脳の活動が非常に強くなります。
演奏の自由はどこに生まれるのか
演奏中、もう意識的に考える必要がない、と感じる瞬間はありますか。
少なくとも私には、そのようなことは起きません。他の種類の音楽なら起きるのかもしれません。スタイルによります。エレクトロのような、少し催眠的なものなら、別の状態に入ることもあるかもしれません。
しかしクラシック音楽では、私は全く信じていません。技術的で洗練された要素が多すぎます。フレージング、フレーズの導き、さまざまなことがあり、多くの注意とコントロールが必要です。
インスピレーションはその「一段上」にありますが、その基盤の上に成り立ちます。だからこそ、いわゆる「土台」が必要です。その土台があることで、後に解放され、より自由になれます。
音色のコントロール、イントネーションのコントロール、そして他の人と演奏する場合はタイミング。周囲で起きていることへの意識。遠達性や音の響きへの意識。こうしたことは、最低限の作業を必要とします。
それらの要素が揃って初めて、個人の声が出てきます。
ただし、それもレパートリー次第です。自由を持てる作品もあれば、ストラヴィンスキーのように自由がない作品もあります。作曲家や様式によって大きく異なります。
演奏空間や響きとの関係を意識しながら、音色やニュアンスを含む表現全体について語る場面。
レパートリーの例として、インスピレーションが必要な作品、あまり必要でない作品を挙げるなら、どう考えますか。
私は、バロックから20世紀に至るまで、ほとんどすべての音楽にインスピレーションが必要だと思います。
これらの時代には、解釈者に大きな自由がありました。時代によって、装飾、柔軟性、リズム、さまざまな概念に関する作業があります。
そして20世紀に断絶が起きました。作曲家が「私の音楽は、書かれている通りに演奏されなければならない」と言い始めたのです。この断絶を強く押し出した最初の大作曲家がストラヴィンスキーでした。
もちろん20世紀にも自由を求める作曲家はいます。しかし、その時期の前後で、観念が大きく変わりました。
今日、オーケストラの入団試験でモーツァルトを演奏する際、16分音符を完全に均等にし、テンポを動かさないで演奏することがありますが、18世紀にはそれは不可能でした。誰も理解しなかった概念だと思います。
だからこそ、歴史的情報にもとづく演奏や、教本・理論書・当時の情報を研究することは、とても興味深いのです。この音楽を現代の視点だけで演奏しないために。
では、そうした解釈や自由の議論を踏まえたうえで、演奏家にとって「演奏の価値」はどこに置かれるのでしょうか。結果や評価とは別に、演奏後に「本当に音楽だった」と感じられるのは、どのようなときですか。
それは不可能だと思います。演奏中に、自分が何をしたかを正確に評価することはとても難しい。
ときには非常に満足していたのに、後で録音を聴いてがっかりすることもありますし、その逆もあります。「ひどい演奏会だった」と思っていても、数か月後に聴くと「悪くなかった」「面白い瞬間があった」と感じることもあります。
自分で自分を評価することには、あまり意味がないと思います。重要なのは、聴衆がどう感じたかです。聴衆が感情を受け取ったかどうか。これは計算も予測もできません。同じ聴衆でも、反応はまったく異なります。
私にとって唯一の報酬は、聴衆が誠実に「とても良かった」「心を動かされた」「何かを思い出した」と伝えてくれるときです。それだけが、意味のある基準だと思います。
音楽の目的は、与え、共有することです。
モーツァルト《クラリネット協奏曲》を「理解する」とは何か
2026年4月(今年)、読売日本交響楽団とモーツァルトのクラリネット協奏曲を演奏されます。長いキャリアを踏まえ、若い頃と比べてこの作品への向き合い方は変わりましたか。技術ではなく、年齢や経験によって作品が演奏者に投げかける問いが変わるか、という意味です。
解釈は完全に変わりました。それは確かです。ただし年齢のせいだとは思いません。むしろ、いまの私は知識が増え、楽譜をより深く学びました。音楽的にも歴史的にも、様式について多くの本を読みました。また、多くの人に会い、新しい扉や新しい考え方を示され、知らなかったことを多く教わりました。そうした研究、出会い、あちこちで得た情報、それらすべてが重なっています。そしてもちろん、この協奏曲を学生と一緒に何度も扱ってきたこともあります。
私のこの作品に関する発展において、最も重要だったのは、歴史的楽器で演奏し始めた時期です。そこで、モーツァルトがなぜこのように書いたのかが分かるようになります。
たとえばテンポもそうです。また、ある音は暗く響き、別の音は非常に明るく響く。つまり各音で色彩が違います。モーツァルトは当然それを知っていました。彼が並外れているのは、楽器の質(長所)と欠点(制約)を理解し、それを用いて書いているところです。
こうした歴史的楽器の知識を得た後に現代楽器へ戻ると、大きな違いが生まれます。実際、私はこの協奏曲を歴史的楽器で録音したばかりです。そのディスクは、この4月の演奏と同じ時期にリリースされる予定です。そしてこの演奏会は2公演で、録音後に、この作品を現代楽器で再び演奏する最初の機会になります。
つまりモーツァルトは、年を重ねて成熟すれば自然と習得できるものではない、ということですね。
一般的に、研究をしない人は、だいたい良くありません。研究がないと、確信だけが増え、「こうだ」「他ではない」と言い切るようになります。私にとって、それは音楽家の良い発展にとって敵です。
モーツァルト協奏曲のように、何度も演奏してきた作品でも、指揮者や共演するオーケストラによって音楽の性格が違って見えることはありますか。
音楽の性格自体は、モーツァルトの概念(コンセプト)として保たれます。しかし幸いなことに、新しい人、新しい指揮者、新しいオーケストラと出会うたびに、それは常に対話になります。だから毎回違います。同じ人たちであっても、2回目の公演は全く違うものになります。
同じ作品を別のパートナーとリハーサルすることの面白さは、新しい光、新しい考え方が得られることです。ときに全く興味深くないこともありますが、それが生きた音楽の面白さです。常に実験室で、常に実験で、固定されたものは何もありません。常に変化している素材です。
モーツァルトのように、様式や解釈がかなり確立していると言われる作品で、演奏家の自由や個性はどこにあるとお考えですか。
私はその質問に全く同意しません。もちろん、各時代・各様式には規範やルール、コードがあります。しかしこの時代は、音楽史の中でも最も自由の大きい時代の一つです。
私にとって、オーケストラのコンクールでの大きな悲劇の一つは、あるテンポ、あるアーティキュレーションの「一つの版」が固定されてしまうことです。私はそれを非常に愚かな概念だと思います。モーツァルトはそれを見たら恐ろしく感じたはずです。
この時代に素晴らしいのは、柔軟さであり、装飾の自由です。モーツァルト自身が、同じアリアを二人の歌手のために書き、二つ目の版として装飾を加えたものを書いた例があります。また、有名な例として、(どのピアノ協奏曲か番号は思い出せませんが)モーツァルトが姉に楽譜を送り、姉が「緩徐楽章が少し簡素すぎるので、もっと装飾と自由のある二つ目の版を送ってほしい」と言うと、数日後に姉はモーツァルトの装飾が書き込まれた楽譜を受け取った、という話があります。
つまり、アーティキュレーションの自由、装飾の自由、そして発想、色彩。古典派様式のルールを尊重しながらも、提案できることの余地は非常に大きいと思います。
教育者の中には「このテンポ、この解釈で管理しなさい」と言う人もいます。
問題は、審査員の中に「それが正しい、それ以外はない」と考える人がいることです。もう一つ、より実務的な理由もあります。人を比較しなければならないとき、同じ基準のほうが比較しやすいからです。
どこでもそうです。私は学生と一緒にモーツァルトを勉強するとき、いつも「これはオーケストラ採用試験の版だ」と説明してきました。そして「コンサートで演奏するときは、もっといろいろなことができる」と。状況に適応する必要があります。
リハーサルの段階で、「うまくいきそうだ/噛み合っている」と感じるのは、どのようなときですか。
とても難しいです。フランス語では「錬金術」と言いますが、化学反応がうまくいくかどうか、というようなものです。多くの要素がありますし、しばしば理由が分かりません。
それを左右する要素として、具体的にはどんな点がありますか。
まず、指揮者の態度があります。話し方、動き方、説明の仕方、与える音楽的な指示。そして、それがオーケストラのスタイルと合うかどうか。これはとても神秘的です。非常に有名で大きなキャリアを持つ指揮者もいますし、また別の指揮者とは自然で良い関係が生まれることもあります。ただこれは、クラリネットに特有というより、人間関係の中で起こることです。
私のオーケストラでは、シリーズが終わるごとにアンケートがあります。各奏者に「指揮者をどう思ったか」「コミュニケーションはどうだったか」「リハーサルやコンサートはどうだったか」を聞きます。自分では「素晴らしかった」と思っても、結果を見ると、55%が肯定的で45%が否定的、ということがよくあります。平均するといつもそのくらいです。
演奏会の後も同じです。ある人は「すごく良かった」と言い、別の人は「ひどかった」と言う。つまり、オーケストラを一つの均質な集団として考えるのは難しいのです。もちろん客観的にうまくいっていると感じることもありますが、それが全員一致になることは決してありません。
4月の演奏会で、もし一つだけ特に意識しておきたいことがあるとすれば、何でしょうか。
私が意識しておきたいのは、新鮮さ、そして自由の感覚です。加えて、自分が感じている感情を、聴衆にきちんと伝えられたらと思います。
この作品は死の直前に書かれた音楽ですが、私にとってそれは明るい音楽です。暗い音楽ではありません。曲中にドラマ(悲劇)はありますが、全体としては喜びがあり、明るく、軽やかです。モーツァルトの音楽には確かにドラマがありますが、同時に常に大きな慎み(pudeur)が保たれています。イタリア・オペラのように感情が前面に噴き出すのではなく、感情は内にありながら、体裁と距離が保たれている。その点に私は強く惹かれます。
この協奏曲には希望があります。絶望ではなく、多くの光と楽観主義が息づいている。死が間近にあったにもかかわらず、そこに残されたメッセージは驚くほど前向きで、私はそれを非常に美しいと感じています。聴衆がその感情を受け取り、微笑んで会場を後にしてくれたなら、それ以上に望むことはありません。
ありがとうございました。
※本インタビューは、〈ビュッフェ・クランポン〉クラリネットショールームで開催されたイベント当日に実施しました。クラリネットショールームでは、国内外のアーティストを招いたイベントを不定期で開催しています。