魂の叫びに惹かれて―ハンガリーで見つけた「私のやりたい音楽」|上田浩子氏
中学校の吹奏楽部でクラリネットと出会い、音楽の道を歩み始めた上田浩子氏。大阪音楽大学を経てハンガリー国立フランツ・リスト音楽院に留学し、室内楽やオーケストラ公演など欧州の現場で経験を重ねられてきました。現在は演奏活動を続けながら、大阪音楽大学准教授として後進の指導にも力を注いでいます。本インタビューでは、クラリネットとの出会いからハンガリー留学で培われた音楽観、教育者として大切にしていること、そして長年信頼を寄せてきた〈ビュッフェ・クランポン〉の楽器についてお話を伺いました。
会場協力:大阪音楽大学
クラリネットとの出会いは「吹奏楽部の生の演奏」だった
― クラリネットには、どのようにして出会われたのでしょうか。
中学1年生の時、吹奏楽部でクラリネットを始めました。音楽自体は4歳頃から電子オルガンを習っていたのですが、中学入学当初はバスケット部に入るつもりでいました。ただ、二つ上の姉がオーボエを吹いていたこともあり、吹奏楽部にもどこか関心があったのだと思います。部活動紹介で吹奏楽部の生の演奏を聴いた瞬間に気持ちが大きく変わり、「これは絶対に入ろう」と決めました。
大阪音楽大学のミレニアムホールにて、インタビューに応じてくださった上田浩子氏。
― 西宮高校音楽科での学びを振り返って、特に印象に残っている経験について教えてください。
西宮高校音楽科は、兵庫県で唯一の公立の音楽高校で、入学してまず感じたのは周囲のレベルの高さでした。ヴァイオリンやピアノの同級生たちの実力に圧倒され、正直なところ、半年ほどで「辞めようかな」と思ったこともあります。一方で、同級生は40名ほどいて、全員が音楽家を目指している環境は、まるで音楽大学の予備校のようでもあり、室内楽やアンサンブルを通して刺激を受ける日々でもありました。
高校でも吹奏楽部を続けたいという思いは強かったのですが、音楽科では「ソロを中心に取り組むべき」という空気があり、結果的に吹奏楽部は退部することになりました。その代わりに参加したのが、宝塚市交響楽団です。クラリネット・パートは、セミプロのような奏者が2名、大阪音大卒の方が2名という構成で、そこに唯一の高校生として私が加わる形でした。年齢も経験も異なる大人の奏者の中で演奏することで、オーケストラ作品の理解や現場での感覚を、多く学ばせていただきました。
西宮高校には中学校の吹奏楽部顧問の先生の先生がいらしたため、その先生のもとで吹奏楽を学びたいという気持ちもあり入学されたものの、吹奏楽部の活動はやめ、その代わりにアマチュア・オーケストラで活動を開始された高校生の上田氏(下/右から2番目)
―上田さんが在籍されていた時期の大阪音楽大学の方々は、現在プロで活躍されている方が多い世代ですが、今振り返って、特に影響が大きかったと思うことがあれば教えてください。
私が大学に入学した頃はちょうどベビーブームの世代で、受験は本当に大変でした。9名の枠のうち8名が推薦で埋まり、一般枠は1名だけ。その1枠に30人くらいが受験していたと思います。東京藝大も受けましたがその年は叶わず、奇跡的に大阪音大の一般枠に入ることができました。浪人も考えましたが、翌年も同じような競争率だろうし、入学できる保証はないと思い、大阪音大への進学を決めました。
もう一つ大きかったのが、高校生の時に大学祭で聴いた先輩方の演奏です。現在、京都市交響楽団で活躍されている玄宗哲(ヒョン・ジョンチョル)氏が、当時大学1年生でジャズを演奏されていて、その音色やアドリブ、パフォーマンスすべてが圧倒的でした。「こういう方が学んでいる大学でクラリネットを勉強したい」と思ったことが、進学の大きなきっかけになりました。
入学後は、周りの学生全員が音楽家を目指しているような環境で、私の学年も多くが留学を志していました。先生のレッスンから学ぶことももちろん大きかったですが、廊下で先輩をつかまえて「ここが分からないので教えてください」と聞くことの方が、実は収穫が多かったかもしれません。曲の解釈や指使いなど、本当に多くのことを先輩方から教えていただきました。
欧日音楽講座で「音楽家になろう」と決めた
― 過去に弊社主催の欧日音楽講座にご参加いただいておりましたが、参加されての印象などをお聞かせください。
大学4年生の時に欧日音楽講座を初めて参加させていただきました。その回の一回だったと思いますが、講師はアントニー・ペイ氏でした。以前から演奏がとても好きで、ぜひ受講したいと思って参加しました。
講座期間中に先生が語られたこと、レッスン内容、そして集まっていたメンバーの水準の高さが強く印象に残っています。そしてこの講座を通して「音楽家になろう」と心に決めました。参加者には、現在も第一線で活躍されている奏者が多く、たとえば濱崎由紀氏が当時高校生だったことや、大和田智彦氏、尾前徹也氏がいらしたことも覚えています。今でもお会いすると親しく声をかけていただける関係が続いており、講座で得たつながりは、現在の自分の支えにもなっています。
翌年も参加し、その際はミシェル・アリニョン氏が講師でした。先生の背中を見て学ぶこと、音楽を聴いて自分の中に取り込んでいくことの大切さを、改めて実感しました。
2年連続で参加された「欧日音楽講座」が、「音楽家になろう」と決めたターニングポイントになったと話してくださった上田氏。
「私のやりたい音楽はこれだ」 ― ハンガリー留学の決断
― その後、ハンガリー留学を決意された理由をお聞かせください。
クラリネットといえば、やはりフランスかドイツというイメージが強かったのですが、大学を卒業する頃に「自分はどちらの方向性なのだろう」と迷っていました。そんな時、トランペットの先輩に相談すると、「君のやりたい音楽が一番大事で、国に縛られる必要はない」と言っていただいたんです。
卒業してすぐ、ヨーロッパ各地の講習会を回ろうと考え、スイスでトーマス・フリードリ氏の講習会に参加しました。ちょうどジュネーブでコンクールがあった年で、多くの優れた奏者が集まっていたのですが、そこで出会ったハンガリー人の17歳の男性の演奏を聴き、「私のやりたい音楽はこれだ」と強い衝撃を受けました。
ハンガリーの音楽には、魂の叫びのように人の心や感情をストレートに表現する力があり、民族的な伝統に根ざしたスタイルも感じられて、本当に惹かれました。その彼に声をかけて先生を紹介してもらい、のちにハンガリーのリスト音楽院へ留学することになります。
その17歳の奏者は、プラハ春国際クラリネット・コンクールで入賞し、その後オルガンへ転向、ライプツィヒでのバッハ国際コンクールのオルガン部門で優勝し、現在ではオルガン奏者としてのみならず、作曲家・指揮者としても世界的に活躍しているバーリント・カロシ氏です。留学後は、スイスの講習会でカロシ氏と共演していたピアニストが伴奏者を務めてくださるなど、非常に恵まれた環境で学ぶことができました。
― ハンガリーのリスト音楽院で学ばれて、音楽観や演奏にどのような変化があられたか伺えますか。
先生は(故)ティボル・ディートリッヒ氏で、ハンガリー放送交響楽団で演奏されていた方でした。またリスト音楽院にはベラ・コヴァーチ氏も教えていらして、有名な奏者であり、また作曲家としても、エチュードとして書かれた彼の「オマージュ」という作品集がクラリネットのコンクールでも取り上げられていますが、多才で素晴らしい方だったので、その先生のレッスンも見学させていただいていました。
私が習ったディートリッヒ氏は、楽器のコントロールのことも丁寧に教えてくださいましたが、息の運び方、どのように歌うのか、表現をするかという音楽性の部分を徹底的に指導してくださいました。レッスン時間が随分長かったです。先生の調子がいい時は2時間、3時間レッスンをしていただきました。
上田氏と、ハンガリーのリスト音楽院で師事された(故)ティボル・ディートリッヒ氏(右)。レッスン時間は厳密に決まっているわけではなく、他の生徒の様子をうかがいながら、自分の順番を確認されていたそう。
室内楽で知った「同じ比重で響かせ合う」音楽
― ハンガリーで最も印象に残られているお話をお伺いできますか。
ハンガリーには、日本からの留学生として、管楽器奏者よりもピアニストやヴァイオリン奏者が多くいらっしゃいました。ハンガリー人の友人たちとも多く共演しましたが、特に印象深いのが、後に夫となるピアニストの髙橋孝輔氏との出会いです。髙橋氏はドイツに約6年間留学された後、ハンガリーに来られていて、彼との室内楽を通して、ピアノとクラリネットが同じ比重で関わり合い、互いの音楽性を響かせながら音楽を作り上げていくことに、大きな魅力を感じるようになりました。
ハンガリーで2回目となったリサイタルは、私にとって初めての企画リサイタルでもあり、髙橋氏と相談しながらプログラムを組み、長い時間をかけて音楽を作り上げていきました。ヒンデミットのソナタ、オネゲルのソナチネ、ドビュッシーの《プレミエール・ラプソディ》、ルトスワフスキーの《ダンス・プレリュード》、そしてハンガリーの作曲家ヴァイネルの《ペレギ・ヴェルブンク(ペレグ地方のいざないの踊り)》を演奏しました。このリサイタルでは、それまで学んできたことをすべて表現できたと感じています。
日本に帰国して最初に神戸・松方ホールで行ったリサイタルでも、ほぼ同じプログラムを演奏しました。十分に準備を重ねていたこともあり、すべて暗譜で臨むことができたと思います。アンコールでは、ベラ・コヴァーチ氏の《ファリャへのオマージュ》を演奏しましたが、当時はまだ日本で演奏される機会も少なく、おそらく私が初めて紹介した一人だったのではないかと思います。
ピアニスト 髙橋孝輔氏(左)と上田氏(右)。ブダペストで開催したリサイタル後のお写真。
― ハンガリーと日本では、どのような演奏スタイルの違いがあると感じられていますか。
今の日本にとても似ていると思います。ハンガリーはウィーンの隣にあり、ドイツとも陸続きなので、夜にリスト・フェレンツ号やバルトーク・ベラ号に乗れば、朝にはミュンヘンに着くことができました。ハンガリーにいる間は、ヨーロッパのさまざまな国へ気軽に足を運ぶことができたんです。
ハンガリーは、いろいろな国の文化の良いところを吸収している国だと感じました。たとえばテクニックに関しては、ロシア人ピアニストのような正確さや強さがありました。ロシアに統治されていたり、オーストリア=ハンガリー二重帝国時代の影響もあり、ロシアの文化に加えて、ウィーンの文化も入り混じっています。
さらに、フランスやアメリカ、ドイツに留学経験のある先生方がハンガリーで教えておられ、本当に今の日本とよく似ていると感じました。世界中の音楽の良いところを取り入れているような環境で、ハンガリーの音楽だけでなく、フランスやドイツのスタイルも十分に学ぶことができました。
帰国後に企画した「Hungarian Night」の背景
― 帰国後にリサイタル「ハンガリアン・ナイト」を開催されましたが、どのような考えのもと開催されたのでしょうか。
ハンガリーではロマ音楽※が広く演奏されているので、混同されるのも無理はないと思うのですが、ハンガリー音楽とロマ音楽がごちゃまぜに捉えられていると感じていました。
ゾルターン・コダーイの作品に代表されるように、ハンガリーには古くから民謡を基盤とした独自の音楽があり、それを日本に紹介したいという思いがありました。ハンガリーで学ぶ中で、その違いを自分なりに理解できたと感じ、コダーイへのオマージュから始まるプログラムを大阪・フェニックスホールで演奏しました。
ハンガリーにはアジア的なルーツがあり、生まれた赤ちゃんに蒙古斑が見られることや、姓名の順番が日本と同じであること、日本語とハンガリー語に似た要素があることなど、現地で暮らす中で日本との共通点を多く感じました。考え方や親切心の示し方にも、どこか日本に通じるものがあるように思います。日本の方が初めてハンガリー音楽を聴いても、どこか懐かしさを覚えるのではないか、そんな感覚も、紹介したいと思った理由の一つでした。
日本ではまだ知られていないハンガリーの名曲は数多くあります。現在指導している大阪音楽大学のクラリネットオーケストラを通して、クラリネット・クアイヤーのハンガリー作品なども紹介していけたらと考えています。
※「ロマ音楽」:かつて「ジプシー音楽」と呼ばれてきた
新作は 「誰も袖を通していない着物」
― 初演を多く手がけられていると思いますが、新作や初演に取り組む際の姿勢やこだわりを教えてください。
やはり新曲が一番ワクワクします。誰もまだ袖を通していない着物を身につけるような感覚があって、作曲家の方のお話をできる限り伺い、その方がイメージされている音楽を、私の演奏を通して表現できたらと思いながら取り組んでいます。自分にとって、音楽家として最もやりがいを感じる瞬間でもあります。
特に印象に残っているのが、2005年に関わったフランスの作曲家、(故)ロジェ・ブートリー氏の作品です。ブートリー氏は大阪音楽大学で指揮の客員教授を務めておられ、日本で作品集を制作する企画の中で、クラリネットとピアノのための 《ASUKA》 を、氏のピアノと私のクラリネットで演奏させていただく機会をいただきました。この作品は、シルヴィー・ユー氏による日本初演から間もない時期で、私は関西初演、日本人としては初めての演奏だったと思います。
《ASUKA》 の楽譜にはいくつか誤りがあり、ブートリー氏から直接「ここは間違いだよ」と教えていただいて気づいた箇所もありました。そうした指摘や、演奏スタイル、音楽のイメージについて伺ったことを録音やノートに残し、その後の演奏やレッスンなどで反映することができました。この作品は日本を想って書かれたものでもあり、作曲家の思いに最も近い形で演奏し、後世に伝える一助になれたのではないかと感じています。
大阪に拠点を置く一人のクラリネット奏者ではありますが、ブートリー氏との出会いのように、作品と誠実に向き合うことで、世界の音楽を次の世代へつないでいくことはできるのではないかと思い、これからも少しずつ取り組んでいきたいと考えています。
2010年にフランス・ニースにて、上田氏(左)とロジェ・ブートリー氏がお会いされた際のお写真。
研究の集大成としての「晩年ブラームスの奇跡」
― 数多くのリサイタルを開催されていますが、印象的だった公演はありますか。
自分で開催したリサイタルは、どれも昨日のことのように鮮明に覚えています。なかでも印象に残っているのが、2005年に開催した「晩年ブラームスの奇跡」という公演です。大阪音楽大学ザ・カレッジオペラハウスで、ハンガリー留学時代にご一緒していたピアニストの木村直美氏、チェリストの金子鈴太郎氏と3人で開催しました。ブラームスのソナタを2曲、トリオ作品、そしてOp.121《4つの厳粛な歌》をクラリネットで演奏しました。
学生時代からブラームスが大好きで、「試験でブラームスを吹いても点数は取れないよ」と言われながらも、ひたすら研究してきました。ブラームスが晩年に多くのクラリネット作品を残してくれたことには、今でも深い感謝の気持ちがあります。このリサイタルは、そうした想いをすべて凝縮し、リスト音楽院の仲間とともに作り上げた演奏会でした。
留学中には作曲家のジェルジュ・クルターク氏からブラームスのレッスンを直接受ける機会もありましたし、公演に向けて木村直美氏と再びハンガリーを訪れ、アンドラーシュ・シフ氏の師であるフェレンツ・ラドシュ氏から室内楽の指導を受けたことも、私にとって非常に大きな財産となっています。
「音楽にシリアスすぎるのは似合わない」
―教育者として指導に当たられる際に、大事にしていることがあれば教えてください。
ハンガリーでのレッスンは、私にとってとても衝撃的でした。少しミスをすると、「なんだよ浩子、わははは」 と先生が笑うんです。他の先生のレッスンを見学しても、とにかく皆さんよく笑っていました。ミスをして最初は穴があったら入りたい気持ちでしたが、音楽にシリアスすぎるのは似合わない、間違えて落ち込むのは良くないのだと次第に思うようになりました。
その経験は、今の指導にも自然と生きています。生徒が間違えたり 「ちょっと違うな」 と感じることをした時にも、ユーモアを込めて 「それ、作曲した?」 と声をかけるなど、レッスンが必要以上にシリアスにならないように心がけています。まずは楽しく、曲に興味を持って学んでほしいと思っています。
曲選びについても、「この曲をやりなさい」 と一方的に決めることはしません。いくつか曲を紹介し、「一度聴いて感想を聞かせて」 と伝えます。「もう少しこういう感じがいい」 と言われたら、また別の曲を紹介する。私の方が多くの曲を知っていますが、「先生が決めてください」 と言われても、最終的には生徒自身の感想をもとに選べるよう導いています。
「3回のレッスンより1回の演奏会」
― 音楽家を目指す若い方に伝えたいことは何ですか。
クラリネットが上手なだけでは、プロとして仕事を続けることはできません。人として、社会人として認められ、必要とされる存在になってほしいと、いつも伝えています。コンクールも大切ですが、「ナンバーワン」 ではなく、「あなたの演奏を聴きたい」 と求められるオンリーワンの奏者になってほしいと思っています。
そのため指導では、指使い一つにしても 「こういう方法もあるよ」 と選択肢を示し、自分で選んでもらうようにしています。楽器も同じで、こちらが決めるのではなく、自分で吹いて、聴いて、納得して選ぶことを大切にしています。
もう一つ、学生に強く伝えたいのは、生の演奏をたくさん聴いてほしいということです。ハンガリー留学中、毎晩のように世界的な奏者の演奏を生で聴けた経験は、私にとって何よりの財産でした。3回のレッスンよりも1回の演奏会、そう感じています。クラリネットに限らず、ジャンルを問わず生の音楽に触れ、自分の人間性を音楽に反映させていってほしいと思っています。
日本のサントリーホールや大阪のシンフォニーホールと同じように、世界的に有名な奏者が来るホールで、当時もっとも有名なハンガリーのホールにリスト音楽院ホールがあり、そこで毎晩生で、世界的に有名な奏者の演奏を聴くことができたことが、ご自身の財産になっていると話す上田氏。
〈ビュッフェ・クランポン〉との出会いと、いま信頼する理由
― 〈ビュッフェ・クランポン〉の楽器との最初の出会いを教えてください。
中学1年生でクラリネットを始めた当初は、マーチング用のプラスチック製の楽器を吹いていました。ところが、その年の冬にアンサンブルコンテストで、先輩たちに混じってクラリネット四重奏に出場することになり、さすがにプラスチックはまずいと思って親を説得しました。ただ、両親からは 「続けるかどうかも分からないのに」 と言われてしまって。
そんな時、学校に教えに来てくださっていた髙橋多美氏が、学生時代に使われていた “R13” を安く譲ってくださいました。初めて吹いた瞬間、「なんて暖かくて、優しくて、人の声に近い音なんだろう」 と感じ、響きの深さに驚いたのを覚えています。練習が一気に楽しくなり、クラリネットという楽器が音色で人を包み込んだり、想いを届けられる楽器なのだと初めて実感したのが、この “R13” でした。
― 現在使用されている〈ビュッフェ・クランポン〉の楽器について教えてください。
学生時代は “Festival(フェスティバル)” をずっと使っていました。音色が華やかで、自分の音楽を自由に表現できるところがとても魅力的でした。その後、“Tosca(トスカ)” が発売された頃、元NHK交響楽団の(故)濵中浩一氏に勧められて吹いてみたところ、まろやかで、音が自然に浸透していくような深みのある音色に惹かれ、使うようになりました。室内楽には特に相性の良い楽器だと思っています。
現在は “Légende(レジェンド)” を主に使用しています。ソロやオーケストラで大ホールを演奏する際にも、表現の幅がとても広く、どれだけ音量を出しても音色が変わらない。その力強さと安定感は、これまで使ってきた楽器の中でも特別だと感じています。
また、長年モーツァルトのクラリネット協奏曲をオリジナルの楽器で演奏したいという思いがあり、〈ビュッフェ・クランポン〉のバセットクラリネット “Prestige(プレスティージュ)” を手にしました。テクニカルサポートの青柳氏に調整もしていただき、モーツァルトを演奏する時は必ずこの楽器を使っています。オリジナルの楽器で吹くことで、モーツァルトに一歩近づけたような気持ちになります。
Osaka Shion Wind Orchestra(元大阪市音楽団)に長く関わる中で、アルトクラリネット “Prestige” と出会えたことも大きな出来事でした。この楽器でソロを吹きたいと思い、酒井格氏にアルトクラリネットとピアノのための ≪高原にて≫ を委嘱し、初演できたことは今でも印象に残っています。
― 〈ビュッフェ・クランポン〉の楽器の、特に信頼している点をお伺いできますか。
何より音程感の良さですね。音の並びや吹奏感がとても均一で、楽器に助けられていると感じる場面が本当に多いです。オーケストラや吹奏楽で客演する機会も多かったので、正確さという点では絶対的な信頼があります。
また、機種ごとに明確な個性があり、奏者一人一人に合った選択肢があるところも大きな魅力です。生徒に楽器選びを相談された時も、「この人の音楽を一番引き出してくれる楽器」がきっとある、そう思えるメーカーだと感じています。
教育に携わる比重は増えていますが、できる限り演奏家としての活動も続けながら、クラリネット音楽の美しさをこれからも伝えていきたいと語る上田氏。
ハンガリー作品とクラリネットオーケストラへの想い
― これから取り組んでみたい作品やプロジェクトがあれば教えてください。
まだあまり紹介されていないハンガリーの音楽を、これからも積極的に紹介していきたいと思っています。ハンガリー国外では演奏機会が少ないものの、本当に素晴らしい作品がたくさんありますので、そうした曲を伝えていきたいですね。
大阪音楽大学のクラリネットオーケストラでは、YouTubeで演奏を配信していますが、それをきっかけに海外、たとえばイギリスから興味を持って本校に留学した学生もいます。50人規模で活動しているため、「クラリネットクワイア」ではなく 「クラリネットオーケストラ」 という名称で、この編成ならではの魅力を発信していきたいと考えています。
また、アレンジ作品に加えて、クラリネットオーケストラのために高昌帥氏や酒井格氏に委嘱し、オリジナル作品を書いていただいてきました。お二人はこの編成の特性を深く理解されており、演奏するとパイプオルガンのような響きが生まれます。今後も委嘱を続けながら、クラリネットオーケストラの魅力を世界に発信していきたいと思っています。
― 200周年を迎える〈ビュッフェ・クランポン〉に、メッセージがあればいただけますか。
200周年という節目に、私自身がその一部の年月を関わらせていただけることは、大きな光栄であると同時に責任も感じています。クラリネットの発展を語るうえで、〈ビュッフェ・クランポン〉の存在は欠かせないものだと強く思いますし、長い歴史の中の一時期ではありますが、製品の進化や新しい楽器の誕生を共に歩み、多くの恩恵を受けてきました。
音楽を愛する気持ちや、クラリネットの音色を美しいと感じる心に国境はありません。微力ではありますが、〈ビュッフェ・クランポン〉 の楽器を通して音楽を奏で、その魅力を伝えられる奏者でありたいと思っています。
ありがとうございました。