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アドリアン・ジャミネ氏 ─ 失われたフレンチトランペットの復興と創造の軌跡(前編)

フレンチトランペットの製作家アドリアン・ジャミネ氏。戦後フランスで途絶えていたフランス学派の伝統を継承するトランペットを復活させ、〈アドリアン・ジャミネ〉ブランド、および〈アントワンヌ・クルトワ〉ブランドから新たなモデルを発表し、瞬く間にフランスを代表する奏者たちを魅了してきました。本記事では、いまヨーロッパで最も注目される金管楽器製作者となったジャミネ氏の歩みを辿ります。

原点から復興の決断へ

音と手仕事が育んだ道——少年期から音楽院時代へ

ご自身の歩みについて伺います。ブレティニー=シュル=オルジュでの少年時代から、ブローニュ=ビヤンクール音楽院に至るまでの経歴を振り返っていただけますか。

私はパリ南部のブレティニー=シュル=オルジュに生まれました。家族は皆この地の出身で、祖父母4人もそこで暮らしていました。手工芸と音楽の双方が極めて身近な家庭で、父はアマチュア音楽家であると同時に木工所で働く職人でした。私は自然と、手工芸の世界と音楽の世界、その両方の間で育ったのです。父の友人たちは皆トランペット教師で、私の最初の師である地元のアラン・フォシェは父の親友であり、私の名付け親でもありました。

その後、12歳頃だったと思いますが、テレビで共和国親衛騎馬隊 — 大統領府直属の音楽隊 — の特集を観て強く魅了され、「自分もこれをやりたい」「もっと本気で向き合おう」と決めました。プロの音楽家になろうと心に決めた瞬間です。

この思いを原動力に、後にブローニュ=ビヤンクール音楽院(パリ近郊でも屈指の実力校として知られる音楽院)に進み、フレデリック・プレルに師事しました。入学したのは15歳のときで、上級クラスには10〜15人の生徒がいました。当時は誰も気づいていませんでしたが、その多くがのちにフランスを代表する大ソリストたちになりました。振り返ると、友人関係に支えられた、とても豊かな「エコシステム」の中にいたのだと感じています。

ブローニュ=ビヤンクール音楽院時代のアドリアン・ジャミネ氏
ブローニュ=ビヤンクール音楽院時代のアドリアン・ジャミネ氏と、同時期に学んだ仲間たち(Adrien Tomba、Célestin Guérin、Jérôme Lacquet)

〈地下室から響いた未来〉楽器修復との出会いとアトリエ創設

楽器製作者としての道を歩み始めたのは、いつ頃だったのでしょうか。

音楽院時代から、私はトランペットに関わるあらゆるものを貪欲に吸収するようになりました。そして、次第に自分は周囲の仲間とは「惹かれているものが違う」と気づき始めたのです。録音ももちろん聴きましたが、それ以上に惹かれたのが「楽器そのものの歴史」でした。

高校入学前の職場体験では、パリのローマ通りにある楽器工房を選びました。これが大きな転機となり、古い楽器への関心が一気に深まりました。楽器を買い集め、実家の地下室を工房に改造し、修復を始め、そこで修理技術を身につけていきました。古い楽器に触れるうちに、その背後にある物語や歴史にも惹かれ、それらが大きなインスピレーションとなっていきました。

やがて自分の楽器だけでなく、友人の、そのまた友人の依頼が舞い込むようになりました。周囲の仲間は非常に優秀で、次々とパリ国立高等音楽院へ進み、パリ・オペラ座、フランス国立管弦楽団など、国内の主要オーケストラへと羽ばたいていきました。彼らが私の仕事を紹介してくれたことで、自然と輪が広がっていったのです。

当時は「演奏」と「修理」の両方を行っていました。パリの名門ラムルー管弦楽団とは長く共演し、ブラスバンドの仕事も数多くこなし、非常に充実した日々でした。しかし工房が大きくなるにつれ、演奏の機会は自然と減り、アーティストとの修理・開発の仕事が中心へと移っていきました。

アドリアン・ジャミネ氏とトランペット奏者の友人たち
アドリアン・ジャミネ氏と、各地で活躍するトランペット奏者の仲間たち(写真にはレミ・ジュスメ氏、ピエール・デゾレ氏ら、同世代を代表する奏者たちが写っている)

〈転機〉製作家として生きると決めた瞬間

演奏よりも製作が「本業になっていく」と感じた決定的な瞬間を教えてください。

忘れられない瞬間があります。それは、まだ演奏と修理のどちらを本業にするか、自分でも決めきれていなかった頃のことです。

最初は友人のトランペットを修理できるだけで嬉しかったのですが、すぐに評判が広がり、信じられないような出来事が続きました。
両親の家の地下室で作業していたにもかかわらず、私の部屋の壁にポスターを貼っていたような著名な奏者が次々と楽器を持ち込んでくれるようになったのです。ただ、喜びの一方で「演奏より修理の時間が増えている」という複雑な思いもありました。
そんなある日、決定的な出来事が起こりました。

当時、私の工房があったブレティニーからパリまでは、車で片道およそ1時間かかりました。
ある日、その距離を越えて修理した楽器をパリの複数のオーケストラに届けていくうちに、結果的に「当時もっとも活躍していたトランペット奏者15人」に、同じ一日のうちにすべて会うことになったのです。
パリ・オペラ座へ行き、ラジオ・フランス・フィル、フランス国立管へ行き、夜にはサル・プレイエルへ。
朝から晩まで、修理した楽器を通して奏者たちと向き合い続けた一日の終わり、私ははっきりと悟りました。

「演奏者として関わるより、製作家としてのほうが彼らと深い関係を築けている。自分はこれを本業にすべきだ。」

〈復興の決意〉フレンチトランペットを取り戻す — 使命の自覚と新たな地下室から始まった創造 ― アトリエの原風景

ご実家の地下室でアトリエを始めた頃、まず思い浮かぶ光景はどのようなものでしょうか。

そうですね。本当に多くの記憶が折り重なっているのですが…

いま振り返ってまず思い出すのは、そこが地下室であることを忘れてしまうほど天井が低かった、ということです。
背の高い奏者が試奏をするときは、少し頭を傾けて吹いていて、その姿が懐かしく思い出されます。

そして、何よりも印象的なのは、私がとても若いうちにこの仕事を始めていたという事実です。
若さゆえの無邪気さと勢いで、ただ前に向かって進み続けていた ― 今振り返ると、そのエネルギーが大きな原動力だったのだと感じます。

同じ地下室時代に、私の人生に深く刻まれた一人の音楽家との出会いがあります。
それが、パリ管弦楽団の来日公演でも演奏したトランペット奏者、ピエール・デゾレ(ボルドー国立管弦楽団 首席奏者)です。
彼がパリに出てきた当初、行くあてがなかったため、私の実家の私室で一年間暮らしました。隣では私が制作をし、彼はその場でどんどん試奏をしてくれる。互いにとって、非常に豊かな時間だったと思います。

また、パリ国立歌劇場管弦楽団のスーパーソリスト(首席奏者クラスの特別ポジション)、マルク・グジョン氏とも近所に住んでいたため、頻繁に工房を訪れてくれました。彼の緻密な要求に応える作業は、まるでレーシングチームのような緊密なやり取りで、私を大きく鍛えてくれました。

さらに、中学3年の職業体験で初めて工房に来た若いスタッフ、リュカの存在も忘れられません。彼は初めてのトランペットを私の工房で手にし、そのまま製作を志し、現在は欠かせないメンバーとなっています。

こうした「人の物語」が折り重なって、あの地下室は単なる作業場ではなく、私にとって特別な「原点」の場所となりました。

写真左:地下室のアトリエ時代のアドリアン・ジャミネ氏 写真右:左から、ピエールで・デゾレ氏(ボルドー国立管弦楽団 首席奏者)、ロジェ・デルモット氏、アドリアン・ジャミネ氏
左:地下室のアトリエ時代のアドリアン・ジャミネ氏
右:左からピエール・デゾレ氏(ボルドー国立管弦楽団 首席トランペット奏者)、ロジェ・デルモット氏、アドリアン・ジャミネ氏

「フランスにトランペットメーカーが存在しない」という衝撃

フランスにトランペットメーカーが存在しないという思いは、以前から心の中にあったと伺いました。その認識がロックダウン期にどのように変化し、決意へとつながったのでしょうか。

ロックダウンの最中、私はアトリエの整理を始めました。
それは、工房と向き合いながら、これまで断片的に意識していた事実を、時間をかけて整理し直すことができた期間でもありました。
工房の片隅に眠っていた資料や古い楽器を手に取りながら、フランスにはもはやトランペット製造業者が存在しないという事実を、はっきりと認識することになったのです。

「これほどの歴史と遺産があるのに、フランスにはいま、トランペットメーカーが一社も存在しない。」
「かつてのフレンチトランペットが持っていた物語を、誰も継いでいない。」

その認識は以前から心の奥にありましたが、ロックダウンという時間のなかで、それはより鮮明な痛みを伴うものとなりました。

お客様からも、「あのフレンチトランペットは誰が復活させるのか」「いつ再び作られるのか」という声を、具体的なイメージとともに何度も聞いていました。

そして決定的だったのは、往年のフレンチトランペットの名手ロジェ・デルモットとの出会いです。彼はすでに90歳代半ばでしたが、電話口でフレンチトランペットの歴史、設計、音楽観について語ってくれました。その言葉の一つひとつが、胸に深く刻まれました。

いくつもの要素が重なり、私ははっきりと自覚しました。
「フレンチトランペットを再び作るべき人間は自分なのだ」と。

もちろん、すべてが明確に見えていたわけではありません。「まずは実験的にやってみよう」という気持ちや、「旅をしたい」「フランス文化を世界に届けたい」という個人的な願いも、強い原動力になっていました。
そうして、私は再びフランスにトランペットを取り戻すための第一歩を踏み出しました。

■ 関連動画|ジャミネ氏の故郷ブレティニー=シュル=オルジュへのオマージュ “リュシアン”

〈アドリアン・ジャミネ〉が生まれ育ったブレティニーの物語を受け継ぐトランペット “リュシアン”。
彼がこの街に抱く想いと、モデルに込めた「継承」の精神を語るショートムービーです。

後編に続く| “アルフレッド” 誕生とその後の広がり
ジャミネ氏が最初のモデル “アルフレッド” を生み出し、フランス中の演奏現場で普及するまでの軌跡を、次回の後編で詳しく取り上げます。
アドリアン・ジャミネ氏 ─ 失われたフレンチトランペットの復興と創造の軌跡(後編)
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