ブログVol.16 – 恐怖は翼を与える
国際的なクラリネット奏者として多彩な演奏活動を行い、パリ地方音楽院やローザンヌ高等音楽院で教鞭をとるフローラン・エオー氏。エオー氏がフランスで執筆中のブログの日本語版を、シリーズ化してお届けいたします。
本記事は、フランスのクラリネット奏者 フローラン・エオー氏が2010年に執筆したブログ「La peur donne des ailes(恐怖は翼を与える)」の日本語版です。当時の知見をもとに書かれた内容ですが、演奏家が舞台で直面する恐怖や身体反応の本質は、現在においても変わらない重要な示唆を含んでいます。
ステージでの緊張と恐怖の正体:音楽家が知っておきたい心と身体の整え方
恐怖は翼を与える——演奏家にとっての「恐怖」とは何か
恐怖は、心理学者ポール・エクマンが定義した六つの基本感情の一つです。
脳の内部には「情動脳」と呼ばれる領域があり、幸福感や心拍・血圧などの生理的反応を司っています。
神経科学者アントニオ・ダマジオによれば、心の働きは「理性的な脳」と「感情的な脳」の共生努力の結果だといいます。
情動脳(大脳辺縁系)は最も古く、私たちは哺乳類、さらには爬虫類ともこの仕組みを共有しています。
その外側に新しい脳(新皮質)があり、注意・集中・思考・道徳的判断といった人間的な活動を担います。
大脳辺縁系は構造的に原始的であるものの反応が非常に速く、恐怖は状況分析よりも先に生じます。
強いストレスを受けると、新皮質(前頭葉)の働きが一時的に抑えられ、理性的判断が難しくなることがあります。
このように、二つの脳(情動脳と新皮質)は互いに協調したり、あるいは衝突したりします。
そのバランスが保たれているとき、私たちは心身の調和(well-being)を保っていられます。
身体が教えてくれること——呼吸・姿勢・心拍が支える演奏の安定
心拍リズムは、交感神経(緊張を促す)と副交感神経(鎮静を促す)の働きの拮抗によって調整されています。
ストレスや不安の状態では、心拍のリズムが不規則になり、感謝や穏やかな集中の状態では、より整ったリズムとなります。
恐怖は情動脳で生まれ、その痕跡は長く残ることがあります。
しかし、それを克服する力もまた私たちの中に備わっています。
身体と心は互いに影響し合います。
いわゆる心身症は心理的要因が身体症状として現れたもので、逆に姿勢や表情など身体の状態が心の働きに影響を及ぼすことも知られています。
たとえば、微笑むという単純な行動でも脳内にエンドルフィン(幸福ホルモン)が分泌され、気分を穏やかに整える効果があります。
恐怖に伴う身体反応は哺乳類に共通する防御反射です。
胃や内臓を収縮させて身を軽くし、心拍と呼吸を速め、より多くの酸素を血中に送り、逃走を可能にします。
まさに「恐怖は翼を与える」のです——勇気を出して、逃げましょう!
ステージでの緊張とその乗り越え方——音楽家のメンタルケアとリラクゼーション法
ステージでの緊張(フランス語では「トラック」)は恐怖に由来する感情の一種で、身体反応も似ています。
ただし聴衆から逃げるわけにはいかない演奏家にとって、こうした原始的な防御反応はむしろ不利に働きます。
したがって、舞台緊張を制御することは、不要な生理反応を抑え、集中力を高めるための必須課題です。
そのためには、腹式呼吸で深く息を吸い、筋肉を緩め、心を内側に向け、呼吸と心拍をゆっくり整えることが基本です。
震えや発汗といった副次的症状もやがて鎮まり、精神もそれに「共鳴」して落ち着きます。
定期的なリラクゼーション、瞑想、気功、ヨガ、アレクサンダー・テクニックなどは、身体感覚を取り戻す有効な手段です。
食事・睡眠・運動を整えることもまた、緊張に強い身体づくりにつながります。
心理的側面では、十分な準備——抜けのない練習、現実的な目標設定——が何よりも大切です。
不十分な準備は、無意識のうちに自己不信を呼び起こし、演奏中に「支払うこと」になります。
信頼できる人々に囲まれ、過度な刺激から自分を守りましょう。
そして時にはユーモアを持って心を軽く。
笑いは最高の鎮静剤です。
視覚化(イメージ・トレーニング)やソフロロジー(呼吸と可視化を組み合わせた欧州のリラクセーション法)も、心身の安定を支える有効な方法です。
音楽家としての結論
舞台緊張時には非合理的な思考や雑念が湧きがちです。
そのときこそ、支えとなるのは基本技術(息の支え・アンブシュア)です。
まず最初の数小節に意識を集中し、良いスタートを切りましょう。最初の印象は大きく響きます。
そして——フランスのことわざに倣って——最後は歌いましょう。
楽器とともに、あなたの音楽が聴く人の心に届くように。
◆ 出典・監修
出典:Florent Héau, La peur donne des ailes, Blog “CLÉDESOL”, 2010年8月
日本語版監修:ビュッフェ・クランポン・ジャパン編集部(2025年)
参考文献:
A. Damasio『情動と意思決定の脳科学』/P. Ekman『感情の心理学』/Servan-Schreiber『Guérir』ほか
※本記事は、フローラン・エオー氏のご承諾のもと、2010年8月28日に公開されたエオー氏のブログ記事を株式会社 ビュッフェ・クランポン・ジャパンが翻訳したものです。翻訳には最新の注意を払っておりますが、内容の確実性、有用性その他を保証するものではありません。コンテンツ等のご利用により万一何らかの損害が発生したとしても、当社は一切責任を負いません。