
スティーヴン・ミード氏 インタビュー
〈ベッソン〉のテスターでもあり、英国王立ノーザン音楽大学(マンチェスター)でユーフォニアムの教授を務めるスティーヴン・ミード氏にインタビューを行いました。(取材:今泉晃一)
―最初に、ミードさんがユーフォニアムをどのように吹き始めて、どのように勉強してきたのか教えてください。
ミード(敬称略) 私はイギリス南部の海岸沿いにあるボーンマスという街で生まれました。そこは音楽文化が盛んで、オーケストラや合唱団、すばらしいブラスバンド(英国式金管バンド)がありました。日曜日には教会に礼拝に出かけましたが、そこでは必ず合唱とブラスバンドの演奏があり、その雰囲気が大好きでした。
5歳になるとジュニアバンドに入ることになり、最初はコルネットを渡されましたが、高い音がどうしてもうまく吹けませんでした。そこで2年後にはテナーホルン(アルトホルン)に移り、8歳のときにはバリトン、そして10歳でユーフォニアムを吹くことになりました。これが、このすばらしい楽器との出会いでした。なお、このときの楽器は3本ピストンの〈ベッソン〉でした。ベッソンともそれ以来のお付き合いですね。もう53年も前の話です(笑)。
―5歳のときからずっと金管楽器を吹いていたのですね。
ミード 大事なことはもう1つあって、6歳ごろから歌を始め、6年の間レッスンを受けていました。ボーイソプラノとしてさまざまなコンクールやフェスティバルに出演したものでした。8歳か9歳くらいの頃には、ボーンマスの街では有名な歌手だったのですよ!
しかし変声期を迎えてかつてのような声が出せなくなったとき、「ユーフォニアムこそが自分の進むべき道だ」と確信しました。それ以降、ユーフォニアムが自分の声となったのです。歌手として身に付けた呼吸、表現やアーティキュレーション、そして音を遠くに飛ばす技術は当然のことながら楽器演奏にも大いに役立ちました。
13歳か14歳くらいになると「将来はどうするつもり?」と聞かれるようになりました。私は「ユーフォニアムを吹きたい」と答えましたが、大人たちには「ユーフォニアムは軍楽隊以外の仕事はないよ」と言われました。
16歳で本格的に音楽の勉強がしたいと考え先生に相談しましたが、先生は「いろいろ調べたけれど、ユーフォニアムを教えてくれる学校は見つからなかった。トロンボーンかテューバにしたほうがよいのでは?」という答えでした。しかし、私はユーフォニアムの音色の美しさに惚れ込んでいたので、この楽器を手放す気にはなれませんでした。
その年に参加したBBCの「ヤング・ミュージシャン・オブ・ザ・イヤー」というコンクールで、私は最終審査まで進むことができました。これは、ユーフォニアムでは初めてのことでした。このおかげで、イギリスでトップの実力を持つ「ナショナル・ユース・ブラスバンド」に入ることができたのです。
18歳になってロンドンの音楽学校をいくつか受験しましたが、返事はいつも「君の演奏はすばらしいが、ユーフォニアムの受け入れはしていない。テューバなら入学できる」というものでした。これが1980年の状況だったのです。
結局ブリストル大学に進み、広く音楽を勉強することにしました。ユーフォニアムの勉強は3年生にならないとできませんでしたが、しかし在学中にはレベルの高いブラスバンドにソロ・ユーフォニアム奏者として招かれ、あちこち演奏旅行にも行きました。私の演奏者としてのキャリアがスタートしたと言えます。

写真:スティーヴン・ミード氏
―学生と奏者、二足のわらじですね。
ミード とはいえ、演奏家としてはプロとは言えませんでした。だから卒業後に高校教師になり、それと同時にデスフォード・コリアリー・バンドという国内トップレベルのブラスバンドに入ることができて、二足のわらじ生活は続きました。このバンドではBBCテレビのコンテストでソロ賞を2回獲得し、そのたびに賞品として新しい楽器を贈呈されました。2度目の受賞後はベッソンの広報に関連する仕事に携わることができ、1985年から40年にもわたって一緒に仕事をさせていただいています。
そして89年には、10年前にユーフォニアムでの入学を拒否されたロンドンの王立音楽院に招待されてコンサートを開き、数週間後には教師として採用されました。同じ時期に別の学校からもオファーがあり、しばらくの間ロンドン、バーミンガム、マンチェスター、グラスゴーとイギリス南北の4つの学校をかけ持ちしていたんですよ!
―それは忙しい!
ミード 教えることは決して嫌ではありませんでしたが、正直に言えば、毎日ユーフォニアムを吹いていたかったのです。そこで、1990年に教師生活とお別れしてアメリカに渡りました。USアーミーバンド(米国陸軍軍楽隊)と共演したことをきっかけにさまざまな人々と知り合うことができ、世界有数のプロフェッショナルのブラスバンド、ブラスバンド・オブ・バトルクリークのメンバーにもなりました。以来、ずっとそのバンドのソロ・ユーフォニアム奏者を務めています。
大阪のブリーズ・ブラスバンドに招待されて、初めて日本に来たのは1991年のことでした。その後もさまざまな日本の団体から招待をいただき、多い時には年に3回も来日していました。以来、日本は大好きな国です。今の妻も日本人ですからね。日本語は一向にできるようになりませんが(笑)。

写真:スティーヴン・ミード氏
―今や世界中で活躍されていますね。
ミード おかげさまで、14歳のときに夢見たことがすべて現実になりました。世界中に演奏旅行に行くだけでなく、121枚にものぼるCDも出すことができ、それによって世界中の人が私の音楽を知ってくれるようになりました。CDを聴いた人が今度はコンサートに来てくれるようになり、共演のご招待を受けることにもつながりました。15年くらいの間、少なくとも年間に80回のコンサートを行なっていました! でも私にとってそれはとても楽しいことでした。
教えることに関しては、マンチェスターにあるノーザン音楽大学のみに絞ることにしました。ここにはアジアやアメリカなど世界中から生徒がやってきます。去年の12月に香港でコンサートを開きましたが、それも大学の教え子が招待してくれて実現したものです。
―ミードさんはユーフォニアムのレパートリー拡大にも尽力されてきましたね。
ミード はい。これまで350近くのユーフォニアムのための作品を委嘱して、その多くを録音してきました。私は常に「今の自分」ではなく、「次の世代」のことを考えています。すばらしい作品を次の世代に残すことが一番大事なのです。
私が若い頃はユーフォニアムのソロ曲はほとんどなく、トロンボーンやチェロ、ファゴットなどの作品をアレンジするしかありませんでした。だからこそ、レパートリーの拡大は私の活動の重要事項でありましたし、それは今も変わっていません。世界中のさまざまな場所で出会った作曲家と話し、ユーフォニアムソロとオーケストラ、ブラスバンド、ピアノなどのための曲を作り出してきたのです。

写真:スティーヴン・ミード氏
―ミードさんによって、人々のユーフォニアムに対する見方も大きく変化したのではないですか。
ミード この楽器が「クラシック音楽を演奏する楽器」であると徐々に認識されてきました。印象に残っているのは、2007年にドイツでシュトゥットガルト・フィルとともにユーフォニアム協奏曲を演奏したときのことです。コンサートが終わってから、1人のドイツ人女性が私のほうに歩み寄ってきました。彼女が言うには「私は怒っている」と。「何か演奏に問題でもあったかな?」と思いながら話を聞くと、「もう50年もの間このホールでオーケストラの演奏会を聴いているが、こんな美しい音色の楽器を聴いたのは初めてだ! なぜもっと早く知ることができなかったのか!」ということでした。
このように、人々がユーフォニアムという楽器を知る機会がなかったことが、一番の原因だと感じ、より多くの人にこの楽器のことを知ってもらうようにと世界各地で活動し続けてきたのです。
―〈ベッソン〉とはもう半世紀以上のお付き合いとのことですね。
ミード ユーフォニアム歴と同じですからね。10歳でユーフォニアムを吹き始めたときから、しばらくは〈ベッソン〉の“ソヴリン”を使っていました。
1993年に日本に来たときには、その時使っていた楽器のメインチューニングスライドにトリガーを取り付けてもらいました。というのも、当時これは日本にしかなかったからです。帰国後にロンドンのベッソン社に行って見せところ、「製品に取り入れるつもりはない」と言われました。6年後にようやく〈ベッソン〉がOKを出し、トリガー付きの楽器を作るようになったのです。今私が使っている“プレスティージュ”BE2052にも、もちろんトリガーが付いています。
〈ベッソン〉のロンドン工場は2005年12月に閉鎖になり、数か月後にフランスのビュッフェ・クランポン社が〈ベッソン〉のブランドを取得しました。彼らは古いロンドンの工場の代わりに、ドイツで楽器を作ることに決めました。私がドイツの工場を訪れたのは2006年の9月のことで、メイド・イン・ジャーマニーの“プレスティージュ”を初めて吹きました。ロンドンに工場があるときから私は毎月〈ベッソン〉の工場に行ってユーフォニアムのテストをしていましたが、それはドイツに工場が移転した今でも変わっていません。

写真:スティーヴン・ミード氏
―現在お使いの楽器について教えてください。
ミード “プレスティージュ”BE2052はプロになってからずっと使い続けていますが、今の楽器は2018年の9月に入手しました。それ以前は銀めっきのものを使っていたのですが、これはゴールドラッカー仕上げです。世の中には金めっきの楽器もありますが、かなり高価になってしまいますし、金めっきは音を止めてしまうように私には感じるのです。でも金色に輝く楽器は素敵ですよね? それでゴールドラッカー仕上げにしようと決めました。
実際に出来上がった楽器はすばらしいもので、金めっき同様に美しく、そしてもっとよく響くものになりました。以前の銀めっきの楽器よりもサウンドは気に入っています。特にffで吹いたときにも、柔らかなユーフォニアムらしい音を保ってくれるところがいいですね。
―どこかカスタマイズしたポイントはありますか。
ミード 日本製のアクセサリーを取り付けています。ピストンのボタンと、ボトムキャップです。ボタンは特別にデザインして作ってもらったものですが、私のサイト(http://www.euphonium.net/)から購入できるようになっています。ボトムキャップはヘビータイプになっており、少しですが響きをよくする効果があります。あと、ベルには私の名前も彫ってもらいました!
―これまでの53年間という長い間〈ベッソン〉を使い続けている理由は、どこにあるのでしょうか。
ミード シンプルに言って、これよりも良いと思う楽器が見つからないからです。もちろん、世界にはたくさんのよい楽器があります。吹きやすい楽器、他の楽器と音をブレンドさせやすい楽器もあります。しかし〈ベッソン〉ほど自分の個性を際立たせてくれる楽器は他にありませんし、私が出したい音にすべて応えてくれる楽器も他にはありません。楽器は私の一部だし、私の声そのものだと思っていますが、〈ベッソン〉はまさにそんなふうに吹ける楽器です。
すでに、私のDNAには〈ベッソン〉の音が刻み込まれているんですよ。これまでの人生のほとんどすべてを〈ベッソン〉とともに過ごしてきましたし、本当に〈ベッソン〉の楽器が大好きなのです。

写真:スティーヴン・ミード氏